戦国時代の日本の中心畿内から離れた地域を紹介するシリーズ。今回は岐阜を紹介します。岐阜のある美濃の国は土岐氏、斎藤氏を経て信長が天下を取る拠点としました。信長の楽市楽座の政策を最初に行っています。
そんな戦国時代における岐阜の状況を解説します。
この記事の目次
戦国時代における岐阜の人口
戦国時代の岐阜の人口ですが、ポルトガルの宣教師で信長と会見したルイス・フロイスが残した『イエズス会日本通信』からの記録が残っています。そこでは1569(永禄12)年の人口を1万人と推定。
またフロイスは岐阜の町を『織田信長入城以来の町の繁栄をバビロン城の繁栄』とたとえています。江戸時代に入った1650年当時の記録では9000人。以降は前後しつつ1万人前後で明治頃まで続いています。
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戦国時代の岐阜を主に支配していた者・豪族
戦国時代に岐阜を支配していたのは、主に次の勢力です。
・土岐氏
・斎藤氏
・織田氏
・池田氏
・豊臣(羽柴)氏
・奥平氏
飛騨地方を除く岐阜県南部の存在した美濃国は、古代から鎌倉時代の守護までは支配者が入れ替わります。その一方で美濃源氏の嫡流である源光衡(みなもとのみつひら)が「土岐氏」を名乗り、鎌倉幕府の御家人としてこの地域を本拠地としていました。
それが室町時代に入り4代目の土岐頼貞の時代からは正式に美濃の守護となります。やがて守護代として斎藤氏が頭角を現し、土岐氏は名目上の守護となっていきました。14代と16代の2回当主となった頼芸の時代、1552年に斎藤道三により追放されます。
ちなみに道三は、通説では油商人からのし上がり、斎藤家を乗っ取りました。しかし現在の研究では道三ひとりだけではなく、その父・松波庄五郎から始まったものと言われます。その説によると次の通り。
庄五郎は新左衛門尉という名で、元々は京都・妙覚寺の僧でした。やがて油商人松波庄五郎となります。やがて美濃の長井に仕え西村を名乗りました。やがて頭角を現して長井を名乗ることに。その子長井規秀(道三)の時代に、ついに主君だった惣領を討ち殺し、斎藤を名乗るとあります。
こうして美濃を支配した斎藤道三。稲葉山城を整備し本拠とします。しかし道三は子の義龍と対立し、城の北に流れる長良川で1556年に討たれました。ところがこれを知った道三の娘婿だった織田信長は、尾張の次に支配する場所として美濃をターゲットにします。
義龍の子・龍興の時代1567年ついに信長に美濃が支配されました。この際信長側の凋落により、美濃三人衆(稲葉、安藤、氏家)が斎藤氏を裏切ったことが大きく影響します。信長は稲葉山の城や従来の地名『井の口』に代わって『岐阜』の名前を当て、天下を取る決意を示しました。
その後信長が京都や安土を中心に活動。1576年には嫡男の織田信忠が岐阜城主となります。
1582年の本能寺の変で信長と信忠が討たれると、信長三男の信孝が一時的に入りますが、次男信雄に攻め滅ぼされます。その後は池田氏と秀吉の養子だった豊臣(羽柴)秀勝が短期間、岐阜に入りました。
1592年以降は信長の孫で信忠長男の織田秀信が城主となります。秀吉亡き後の関ヶ原では西軍につきました。しかし関ヶ原本戦の前に東軍側に岐阜城が攻められ敗れ去ります。
その後徳川家康は岐阜城を廃城にしました。山城だったことに加え、天下を目指す意味がある『岐阜』という言葉を家康が嫌がったとも伝わります。代わりに平地に加納城を築城しました。そこに家康の娘婿だった奥平信昌が入り美濃加納藩が成立します。
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応仁の乱から家康の天下統一までに岐阜で何が起きていたか?
応仁の乱の前から徳川家康が天下を支配するまでの間に岐阜で起きた主な出来事です。
- 1336年 土岐頼定が、美濃守護に命じられる。
- 1400年前後 6代目土岐頼益のころに斎藤氏が守護代になる。
- 1500年前後 油商人・松波庄五郎(斎藤道三の父)が、長井氏の家臣・西村正利を名乗った後、長井家を乗っ取る。そしてその子(後の道三)が長井規秀を名乗る。
- 1538年 長井規秀が守護代斎藤利良の死後に斎藤利政を名乗り、稲葉山城を改築する。
- 1552年 16代土岐頼芸が斎藤利政(道三)により追放され、斎藤氏が美濃を支配する。
- 1556年 子の斎藤義龍により道三が長良川で討ち死に。
- 1567年 織田信長により、義龍の子・斎藤龍興が追放。稲葉山城を岐阜城に改める。
- 1576年 信長の嫡男・信忠が岐阜城主になる。
- 1582年 本能寺の変で信忠討ち死に信長三男・信孝が入る。
- 1583年 羽柴秀吉の命で、信長次男・信雄が岐阜城を攻撃、信孝追放。後に自害させられる。
- 池田元助が岐阜城に入るも、長久手の戦いで徳川家康の攻撃を受け討ち死に。後を弟の輝政が継ぐ。
- 1991年 豊臣(羽柴)秀勝が岐阜城主になる。
- 1992年 秀勝の没後、信長の孫・織田秀信が岐阜城主となる。
- 1600年 秀信が西軍に属したため関ケ原の戦いの前哨戦で東軍に包囲され信秀は追放。
- 1601年 徳川家康が岐阜城の廃城を決め、代わりに加納城を築城。奥平信昌を配置して美濃加納藩成立。
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なぜ岐阜は首都になれなかったのか?
岐阜が首都になれなかった理由はいろいろ考えられます。ひとつは山城であったこと。徳川家康が岐阜城を廃城して加納城を築城したのは、岐阜という言葉を嫌がったという説があります。しかしむしろ山城では不便だったために、平野部に拠点を置くほうが良いと判断したことが強いと考えられるでしょう。
信長が岐阜に拠点があったのにもかかわらず安土に城を築城したのも、息子の信忠に譲るという理由とは別に政治の中心としては不便であったと考えたのかもしれません。ただ岐阜は北側に長良川、南側に木曽川が流れている位置にあります。水運を利用すれば決して不便な場所ではありません。
ただ安土、大坂、江戸と言ったさらに便利の良い場所と比較したときに、岐阜がそれを上回らなかった。そのため最終的に地方の拠点以上の場所になりえなかったと推測できます。
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岐阜の経済面について
岐阜を経済面で見た場合、織田信長の楽市楽座が挙げられます。この制度は信長以前からありましたが、自国領土に積極的に行ったのは信長から。1567年に支配した美濃国に楽市場の制札からスタートします。
当時岐阜城の山麓にあった加納には市場がありました。信長はその市場に制札を複数回出しています。その背景にはちょうど美濃の斎藤氏を追放し、新たな領主となった信長が村落の人々の帰住を呼びかける制札と併せて出しています。これで長い間続いた美濃攻略の戦後処理をおこない、そして市場の特別性をアピール。市場の発展を目指しました。
その結果、岐阜城下の加納では座と呼ばれる組織の独占販売を否定。自由な商売ができるようになり、城下の経済が潤う結果となりました。そのほか土岐氏の時代には奈良時代から続く伝統産業だった美濃和紙の後押しをして、経済力の強化、富国強兵に努めたという記録が残っています。
それは文化人だった土岐氏を慕った僧侶や公家により美濃和紙が全国に広まっていくこととなりました。
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地震や津波などの自然災害について
戦国時代の岐阜を襲った自然災害で忘れていけないのが天正の大地震です。1586(天正13)年1月18日に起こったこの地震の規模はマグニチュード8程度あったとされ、震度6程度の揺れがあったといわれています。
この震災で岐阜城そのものの被害としての記録は残っていません。ただすぐ近くにある大垣城は全壊消失しています。そのほか山側の恵那地域の上村川では山体が崩落したという記録も。さらに北にある飛騨の国にあった帰雲城に至っては、山崩れで城自体が埋没しました。城主だった内ケ島一族は全滅。そのまま滅亡しています。
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戦国時代ライターSoyokazeの独り言
戦国時代の岐阜は織田信長が拠点にすることで発展しました。しかしその前の時代、土岐氏のころにも美濃和紙の産業を強化するなど、積極的な経済活動の痕跡が見られます。
最終的に徳川家康により、山城の岐阜から平野部の加納に城が作られますが、現在も城跡として再建されたのは加納ではなく岐阜城。それだけ岐阜城が地元から親しみがある証と言えるでしょう。
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