戦国時代の日本の中心畿内から離れた地域を紹介するシリーズ。今回は八王子を紹介します。武蔵野にある八王子は、後北条氏や徳川氏の支配下として戦国時代を生き抜きました。そんな八王子の状況を解説します。
この記事の目次
戦国時代における八王子の人口
戦国時代における八王子の人口についてですが、八王子を含めた武蔵国全体の人口の記録が残っています。それによると1150年ごろに179万人であった人口が、1600年の時点で283万人まで増加しました。
また1591年に大久保長安が八王子8000石の所領が与えられている記録があります。一般的に1石が年間で大人ひとりが食べる米の量。そこから計算すると、この当時8000人程度八王子に人が住んでいた計算になります。
戦国時代の八王子を主に支配していた者・豪族
戦国時代に八王子を支配していたのは、主に次の勢力です。
- 大石氏
- 後北条氏
- 徳川氏(大久保長安、八王子千人同心)
室町時代から戦国期にかけて最初に八王子を支配していたのは信濃大石氏でした。大石氏の祖先は平安時代に平将門と戦い、これを討ち取った藤原秀郷と伝わります。
また沼田氏と同族。元々は信濃国佐久にあった大石の郷を拠点としていました。転機があったのは、室町時代で初代関東管領の上杉憲顕に大石為重が仕えて以降のこと。子のいない為重の養子として後を継いだ大石信重が、1356年に武蔵国の入間と多摩の所領を得ます。
当初は現在のあきる野市に当たる二宮を拠点としました。その後1384年に、八王子市内に浄福寺城を築城します。大石氏は代々上杉氏に仕えながらこの地を治めていましたが、1458年に信重の玄孫・大石顕重が八王子に高月城を築城。このとき正式に二宮から本拠を移しました。
その後を継いだ大石定重は、1510年に伊勢宗瑞(北条早雲)を撃退するなど活躍します。しかし早雲を初代とする、後北条氏の勢力が徐々に巨大化。武蔵国まで拡大します。
それに危機感を持ち高月城からみて1.5キロ北東にある滝山城を新たに築城。そこに本拠を移しました。定重の子・定久は、後北条氏の3代目氏康が、それまで仕えていた上杉氏に大勝したことを見て、上杉を見限り、後北条に近づきます。そして氏康の三男・氏照を娘の婿養子して受け入れることで、八王子は後北条氏の支配へと変わりました。
氏照は定久の死後に北条を復姓。
八王子滝山城を拠点に、後北条4代目の兄・氏政に従いながら、勢力を拡大した織田信長や豊臣秀吉との接触を図ります。その後1587年に八王子城を築城しますが、3年後に行われた秀吉の小田原討伐により後北条が滅亡。
その後徳川家康が、この地を含めて関東の支配者になります。そして家康の家臣であった大久保長安の所領となり、八王子城は廃城。代わりに代官陣屋が作られ、八王子十八人代官が設置・管理します。
また治安維持を目的として、主に旧武田家の旗本出身者により500人同心が置かれました。さらに関ケ原の合戦直前になると、長安が発案して1000人に増強。八王子千人同心が成立しました。
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応仁の乱から家康の天下統一までに八王子で何が起きていたか?
応仁の乱の前から徳川家康が天下を支配するまでの間に八王子で起きた主な出来事です。
- 1356年 大石信重が武蔵国の入間と多摩の所領を得る。
- 当初はあきる野市の二宮が拠点。
- 1384年 信重が八王子に浄福寺城を築城。
- 1455年 大石房重・重仲が堀越公方側として享徳の乱に参戦。
- 1458年 大石顕重が八王子に高月城を築城し本拠を移す。
- 1471年 顕重が古河に大攻勢をかけ将軍・足利義政から感状を受ける。
- 1510年 大石定重が伊勢宗瑞(北条早雲)を撃退。
- 後北条氏の台頭により、滝山城を築城し本拠を変更。
- 大石定久が、上杉を見限り、後北条に従う。
- 定久は、北条氏康の三男氏照を婿養子に迎え入れる。
- 定久没後に、後北条を復姓した氏照が支配。
- 氏照は、氏政の命により織田信長、豊臣秀吉らと接触。
- 1587年 八王子城を築城。
- 1990年 秀吉の小田原討伐により八王子城が落城。
- 徳川家康が関東に入封。
- 八王子に代官陣屋を設置。大久保長安が管理する。
- 旧武田家の旗本出身者により八王子500人同心が誕生。
- 関ケ原の合戦直前、長安の発案により1000人に増強。八王子千人同心が成立。
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なぜ八王子は首都になれなかったのか?
八王子が首都に慣れなかった理由として、この地域が元々関東の中心からも離れていることが挙げられます。中世の鎌倉時代の政治の中心は鎌倉。その後室町時代には鎌倉に公方がいました。しかし戦国時代には戦いに敗れ、茨城の古河に公方が拠点を変えました。
その後関東で力をつけた後北条氏は小田原に拠点を置きます。後北条氏が秀吉により滅ぼされ、代わりに入ってきた徳川家康は、江戸に大都市を構築しました。そしてこの流れを見ると戦により追われた古河公方を除き、鎌倉、小田原、江戸と海に面したところに拠点が築かれています。
それに対して八王子は山間のところにあり、この小さな地域を支配していた大石氏はともかく、以降の大勢力である、後北条や徳川にとって、あまり拠点として魅力を感じなかったのでしょう。それでも後北条の時代には、3代当主北条氏康の子で、4代氏政の弟にあたる氏照を据えています。
当主の親族を配置する当たり、八王子が重要な場所であったことが推測されます。仮に後北条氏が秀吉に逆らうことなく広大な領土を所持したまま時代が過ぎたと仮定。そうなれば八王子が準首都のようなポジションになっていた可能性があります。
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八王子の経済面について
経済の面で八王子を見た場合、三宿三転という言葉が浮かび上がります。これは滝山城の城下町で整備された3つの町のこと。「八幡町」「横山町」「八日町」が形成され、この町は後に八王子城が築城されると、そのまま移築されました。
さらに徳川時代になってこの地を得た大久保長安が、現在の八王子駅北口周辺に再度移築したことからこのように名付けられました。そしてこれらの町は宿場と呼ばれます。これは後北条氏が「伝馬」という手段で、宿場から物資や人を馬で運び届ける制度を支えた場所でした。
宿場では有力な商人に伝馬を負担させる代わりに問屋の権利を認めます。そして市が設けられ、そこで経済活動が活発に行われました。またこの位置により発展したものがあります。それは八王子が発祥の「八王子織物」でした。
これは八王子周辺では、元々耕作地が限られていることから農家では古くから養蚕や機織りが盛ん。その完成した織物を、滝川城下の市で取引するようになったのが始まりです。この八王子織物は江戸以降にも盛んに作られます。そして昭和55年に多摩織という名前で当時の通産省から伝統工芸品として指定を受けました。
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地震や津波などの自然災害について
戦国時代における八王子の災害についてですが、記録には残っていません。実は八王子は地震に強い町として注目を集めているほどです。その理由として、八王子には自然に堆積してつくられた関東ローム層を構成。これは安定的な地盤として住宅地にも最適とされます。
また海から離れているため、海岸地域で起こりがちな液状化現象のようなことは起きません。もちろん津波も八王子まで襲って来ることは無かったでしょう。
火山については富士山の影響を受けることがあり、関東ローム層も富士山の火山灰が主流です。戦国時代の記録を見ると1435(永享7)年から36年初頭に1度、1511(永正8)年に1度噴火したという記録が残っています。被害については記録が残っていません。
ただし江戸時代の宝永大噴火の際には八王子や江戸にまで火山灰を飛ばしたことから、記録にないだけで影響を受けていた可能性があります。
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戦国時代ライターSoyokazeの独り言
戦国時代の八王子は、小さな勢力だった大石氏から始まり、やがて後北条氏と徳川氏に引き継がれました。内陸にあることから首都や拠点ではありませんが、後北条氏の経済政策によりそれなりに発展しています。徳川時代になり、治安維持を目的に旧武田氏の家臣を使って1000人同心を結成。そのまま江戸幕府の直轄地「天領」として、独自の文化をはぐくんでいきます。
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