うん、やはり格好いいですね!真田幸村のことです。大坂冬の陣における真田丸での活躍といい、大坂夏の陣におけるいちかばちかの徳川本陣への最後の突撃といい、何から何まで、とことん「物語になる」男と言えるのではないでしょうか!
とりわけ幸村が大坂夏の陣で見せた突撃の凄まじさ!
あと一歩で家康の首をとれるところまで接近できたものの、惜しいところで及ばず戦死したという話。この、「大逆転まであと一歩、惜しかった!」というところが、なおさら後代の我々の感動を呼ぶわけです。
ですがここでひとつ、考えてみましょう。
「あと一歩で及ばなかったがゆえに恰好いい」真田幸村の最後の突撃が、万が一成功し、徳川家康を討ち取ることに成功してしまっていたら?その場合、歴史はどのように変わっていたのでしょうか?
この記事の目次
予期せぬカタチで隙ができていた?夏の陣当日の徳川方布陣!
まずは史実のおさらいをしておきましょう。
大坂夏の陣では、徳川家康の巧みな外交に惑わされ、大阪城の堀を埋められてしまったが為、豊臣方は一縷の望みをかけて、籠城戦ではなく野戦を選択しました。とはいえ、圧倒的に数的不利な野戦。じりじりと後退していく戦線。その最終局面というべき「天王寺の戦いに」おいて、事件が起こります。
毛利勝永隊の思わぬ善戦により、がっぷりと四つに組んだ形で膠着してしまった徳川方の本軍。その状況を見た真田幸村が、今ならば万に一つ、家康を討ち取れるかもしれないと、いちかばちかの突撃を仕掛けたのです。この思い切った突撃によって、三方ヶ原の合戦以来負け知らずとされていた徳川家康直属の旗本たちも、さすがに大混乱。一時期はついに家康も覚悟を決めた、と伝えられています。
残念ながら、そうはいっても多勢に無勢。家康の首に肉薄したもの、思うようには進めないうちに徳川本陣も態勢を立て直し。真田幸村はやむなく撤退、その後、乱戦の中でついに討ち取られてしまいました。
こちらもCHECK
-
真田三代、幸隆、昌幸、信繁とは?信濃の小豪族から日本一の兵と呼ばれるまでを解説
続きを見る
乾坤一擲の突撃が成功し家康が戦死していたら?
史実での展開は上記の通りでしたが、ここでもし、幸村の部隊が家康の懐に迫り、見事に家康を戦死に追いやっていたら、いったいどうなってしたでしょう?ここから豊臣方の逆転勝利、となっていたのでしょうか?
残念ながら、前後の状況を考えると、そう簡単な話ではなさそうです。この時期、徳川家康は既にかなりの老齢であり、幕府の体制は既に二代目の秀忠を中心にしたものに組み替えておりました。
そもそも、諸事老獪な家康のこと。万一、自分が戦闘中に急死した場合の処置も、抜かりなかったのではないでしょうか?
よって、たとえ真田幸村が家康を戦死させたとしても、徳川の体制は秀忠を中心にしたものに再編され、けっきょく豊臣方は滅ぼされていたのではないでしょうか?
こちらもCHECK
-
犬伏の別れとは?真田父子の別れは予定通りの決別だった
続きを見る
わずかなチャンスは、できた時間を有効につかった外交戦?
とはいえ、徳川家康の戦死となれば、これは大きなニュースであり、徳川方に巨大な動揺が入ったことには、違いありません。豊臣方の唯一の生き筋がここから生まれたとすれば、それは以下のようなものでしょう。
・真田幸村が、家康を討ち取ったことを、すぐに豊臣方諸隊に連絡する
・あわせて、徳川方にも「家康を討ち取ったぞ」とあの手この手で呼びかけ、動揺を拡げる
・それに伴い、豊臣方から、徳川秀忠、ないし徳川方の大物大名に、「一時休戦」の申し入れをする
乱戦の中でこれだけの複雑な連携を取るのは困難だったでしょうが、「家康を討ち取った」というひとつの事実を、しっかりと敵味方に伝達し、かつ、外交努力につなげ、休戦に持ち込めば?
いったん徳川方を退かせ、その間に豊臣方が勢力を回復する時間を、わずか半年でも稼ぐことができたら?ここまで好条件を揃えれば、ようやく、豊臣方逆転のチャンスが出てきていたかもしれません?
こちらもCHECK
-
「家康の家系」風雲松平三代!覇王清康、没落した広忠を経て桶狭間から40年で天下人になった家康の家系を紹介
続きを見る
まとめ:この場合、外交の窓口を誰が行うかで豊臣方の運命が変わる!
この豊臣方唯一の逆転シナリオにも、細かく見ると、まだまだな難点があります。そもそものところで、人材難という問題です。主だった武将がほとんど戦死しているこの段階の豊臣方に、「家康戦死」のニュースを受けてすかさず、これだけの外交的手際を行える人物がいただろうか、ということです。
毛利勝永も真田幸村も、戦場を激しく駆け回っている最中なので、この動きをするのは、大阪城内の誰かでなければいけない筈。
そこで!
たとえば豊臣秀頼が、周囲も驚くような外交のセンスを発揮し、「今こそ、急いで、徳川方に休戦を申し入れるのじゃ!手紙はわしが書く!」などと動きだしたりしたら、面白いと思うのですが!
こちらもCHECK
-
毛利秀頼をマイナー武将だなんて言わないで!足利名門の子から信長家臣、そしてついには「もうひとりの豊臣秀頼」に!
続きを見る
戦国史ライターYASHIROの独り言
そしてもうひとつ。この場合、休戦を申し入れる相手も重要になります。普通に考えれば交渉相手は徳川秀忠になるところですが、父を討たれて逆上している秀忠に直接休戦を申し入れても、拒絶されるリスクも高い筈。
そこで!
真田幸村の部隊の正面に展開している、伊達家の部隊に連絡を申し入れ、伊達政宗に休戦の仲介役に立ってもらう、というのはどうでしょうか?
唐突な外交判断のように見えるかもしれませんが、天下への野心は多々持ちながらも、徳川家康に首根っこをおさえられ、おとなしくなっていた東北の梟雄。
「ここで豊臣・徳川の仲介役として両者の間に立っておけば、いずれは自分もまた、第三勢力としてひとあばれできるかもしれない」と、乗り気になったのではないでしょうか?
伊達政宗という「食えないオオモノ」をうまくけしかけ、徳川方との休戦期間を設け、その時間稼ぎ中に勢力をなんとか回復する。これほどの巨大な戦略を豊臣秀頼がいきなり発案し、動かしてくれたら、豊臣方の乾坤一擲からの大逆転もあったかもしれない。ここまで大阪城内も動いてくれれば、真田幸村が作ったチャンスをもとに、豊臣方大逆転が可能だったかもしれない!などと、夢を膨らませてみたのですが、いかがでしょう?
こちらもCHECK
-
相馬義胤はどんな人?伊達政宗絶対許さんマンの正々堂々人生
続きを見る