薩摩藩には関ケ原以来、263年間で12人の藩主が君臨しました。
俗に島津に暗君なしと言われ、12人の藩主すべてが優秀であったかのように言われますが、それは果たして本当なのでしょうか?今回は、12人の薩摩藩主をそれぞれ分析して、本当に暗君がいないのかを考えてみます。
この記事の目次
- 関ケ原を乗り越え琉球を征服した初代、島津家久
- 藩財政を改革し半世紀君臨2代目、島津光久
- 天災と幕府の手伝い普請を人徳で乗り切る3代目、島津綱貴
- 分家を整備し藩主断絶に備えた4代目、島津吉貴
- 病身を押し、孫の島津重豪を後見した5代目、島津継豊
- 将来を嘱望されるも22歳で急死6代目、島津宗信
- 宝暦治水と実学崩れに苦しみ27歳で死去7代目、島津重年
- 77年も藩主として君臨!蘭癖大名8代目、島津重豪
- 父重豪に強制隠居させられるも隠忍自重した9代目、島津斉宣
- 藩の財政を立て直すも後継者問題で揉める10代目、島津斉興
- 藩主在位7年で偉大な業績を残した11代目、島津斉彬
- 自己主張せず、部下を信じて維新を成就させる12代目、島津忠義
- 12代全ての藩主に共通する事
- 日本史ライターkawausoの独り言
関ケ原を乗り越え琉球を征服した初代、島津家久
薩摩藩の初代藩主が島津家久です。元々の名は忠恒ですが、家康から偏諱を受けて家久と名を改めます。
家久は戦国最強の四兄弟として名高い、島津義久、義弘、家久、歳久の二番目、義弘の三男でした。後継者になる前は蹴鞠と酒色に溺れるダメ人間で、父、義弘から朝鮮より叱責の手紙を受けています。
しかし、上の兄2人が病死し、後継者になると本来の素質を発揮、慶長の役では8000名の島津兵で明軍数万を破る勇猛さを見せました。関ケ原の戦いで父、義弘が西軍に与すると講和交渉をしていた伯父の義久に代わって上洛して家康に謝罪し本領安堵を勝ち取ります。
藩主になってからの大きな功績は、家康の許可を得て琉球を侵略し、琉球を通して明、清王朝との密貿易を開始した事。琉球に奄美大島を割譲させ、黒糖地獄と呼ばれる砂糖の収奪をして富を蓄えた事でしょう。
黒砂糖は江戸時代全体を通して薩摩藩の財源の柱となり、明治維新の原動力にもなっています。家久は酷薄な性格をしていて、慶長の役でも兵士を虐待し逃亡兵も出したようですが、マクロでみれば将来的に薩摩藩の基盤を整備した名君と呼べます。
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藩財政を改革し半世紀君臨2代目、島津光久
島津光久は、初代家久の子で寛永元年(1624年)に幕府の命令で人質として江戸に移住しました。
その後も江戸に留め置かれていましたが、島原の乱が勃発した時、父、家久が病気で出陣できなかったので、家久の代理として薩摩に帰って出陣する予定でしたが、直後に家久が死んだため、家督を継ぎ2代藩主となります。
光久の時代は制限貿易の始まった時期で、薩摩藩も海外貿易が途絶して財政も苦しくなっていました。そこで光久は財政立て直しのために家老島津久通に命じて金山開発を開始しますが、幕府の妨害で停止させられます。
しかし、光久はそれにもめげず、新田開発、洪水対策、産業振興で財政改革をしました。また、光久の時代には、まだ直系の世襲が定着していなかったので、妹婿の島津久章を自害に追い込んだり、父のお気に入りの家老島津久慶を閑職に追放した上に死後に系図から削除するなど混乱が続きました。
困難を極めた政権運営ですが、光久は1638年から1687年まで半世紀も薩摩藩を支配し、孫の綱貴に家督を譲る頃には藩の体制は盤石になっていました。
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天災と幕府の手伝い普請を人徳で乗り切る3代目、島津綱貴
島津綱貴は2代藩主、島津光久の嫡男である島津綱久の子として誕生します。しかし、祖父の光久が長寿して五十年の治世を敷く間に、父の綱久が延宝元年(1673年)に42歳で死去。祖父の光久から23歳で後継者として指名されました。
貞享4年(1687年)光久が隠居したために3代目薩摩藩主となります。家督継承後、薩摩藩は大洪水や大火事など災難が続いた上、幕府より寛永寺本堂造営の普請の手伝いや金銀採掘の手伝いを命じられ薩摩藩の財政はひっ迫します。
この状況では、一揆が頻発してもおかしくないですが、綱貴は、元禄時代の諸大名を辛口で評価した土芥寇讎記で数少ない「領民に慕われる殿様」と紹介されていて、人徳の力で困難を乗り切ったようです。
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分家を整備し藩主断絶に備えた4代目、島津吉貴
島津吉貴は延宝3年(1675年)に3代藩主島津綱貴の子として鹿児島城で誕生します。
しかし、吉貴は父光久が再婚して間もなくの誕生だったために、後妻の鶴姫への遠慮から曾祖父である光久の子供たちと共に育てられたそうです。元禄2年(1689年)5代将軍徳川綱吉から松平の苗字と偏諱を与えられて松平吉貴となり宝永元年(1704年)父の死で4代藩主となります。
吉貴は琉球を厚遇して円滑な関係を築き、宝永7年(1710年)には6代将軍徳川家宣に対し琉球慶賀使を聘礼させます。享保6年(1721年)病気により胸のつかえが酷く、めまいも度々起きて登城も困難になり、長男の継豊に家督を譲り隠居しました。
吉貴は、それまで存在した加治木島津家、垂水島津家に加え、自分の息子達に越前家と和泉島津家という分家をつくらせ、本家が途絶えた時には、この四家から藩主を出すように定めました。
病気に倒れた吉貴ですが寿命は長く延享4年(1747年)に73歳で病死します。
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病身を押し、孫の島津重豪を後見した5代目、島津継豊
島津継豊は元禄14年(1701年)島津吉貴の長男として誕生します。享保6年(1721年)父の吉貴が病気で隠居したために5代目藩主となりました。
当初継豊は長州藩主毛利吉元の娘を正室としていましたが、正室が早世した後、8代将軍徳川吉宗の斡旋で、5代将軍綱吉の養女竹姫と再婚します。
しかし竹姫には吉宗と恋愛関係ではないかという噂があり、継豊の父、吉貴をはじめとして薩摩藩では好意的には受け取られませんでした。ただ継豊の友人、老中松平乗邑の斡旋もあり、竹姫との間に子が産まれても嫡子としないなど色々な条件をつけて受け入れています。
継豊も父の吉貴同様、強度のめまいに苦しみ享保21年(1736年)に江戸に参勤した後、帰国出来なくなり、翌年に江戸在府の届出を出して許可され、以後、12年間薩摩に戻らず江戸に居続けました。
元文元年(1746年)長男の島津宗信に家督を譲って隠居しますが、宗信と次男の重年が継豊に先立ち死去。島津重年の子の島津忠洪(重豪)が11歳で8代藩主となったため、継豊は病身を押して後見人となります。
継豊は寛延2年(1749年)に鹿児島に帰国し宝暦10年(1760年)60歳で死去しました。継豊は、断絶していた越前島津家と和泉島津家に、それぞれ弟を入れて復興させ、また藩主が跡継ぎを決めずに死去した場合に藩主を輩出する家格として一門家を新設しました。
病身ながら、薩摩藩存続の為に布石を打ち相次ぐ息子の死にめげず、孫の重豪の後見を務めたのは立派な業績と言えるでしょう。
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将来を嘱望されるも22歳で急死6代目、島津宗信
島津宗信は5代藩主、島津継豊の長男として誕生します。延享3年(1746年)11月、父継豊の隠居で6代藩主となりました。宗信は若い頃から才気煥発で、藩主としての将来を期待されていましたが、寛延2年(1749年)膝の痛みを発症。
藩主として鹿児島に帰るため、夏を避けて3月に江戸を発つものの道中に浮腫を発症。5月18日に鹿児島に到着するものの症状は悪化の一途をたどり、7月10日に22歳で死去。父の継豊は急な死を悲しみ、7代藩主として宗信の弟の重年に家督を継がせます。
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宝暦治水と実学崩れに苦しみ27歳で死去7代目、島津重年
島津重年は享保14年(1729年)2月、島津継豊の次男として鹿児島城で誕生します。家督は嫡男の宗信が継ぐ事に確定していたので、重年は分家筆頭の加治木島津家当主、島津久季の養子となりました。
享保17年(1732年)に加治木島津家4代当主となり、元文3年(1738年)には家格が一所持から藩主を出す事が出来る一門家へ昇格。加治木島津家の家格は、同じ一門家3家の中では3番目でしたが、血統の上で重年は継豊や宗信に一番近く、宗信の仮養子にもなっていました。
寛延2年(1749年)兄の宗信が22歳で急死、重年は幕府の許可を得て本家に復帰し7代藩主となります。
しかし、藩主となった重年の時代は困難続きで、藩政を批判した実学派を弾圧した実学崩れや、宝暦3年(1753年)の幕府の命令による木曾三川の治水工事(宝暦治水)を命じられ、難工事と幕府の妨害により家老、平田靱負を筆頭に殉職者80名を出し、財政もひっ迫、宝暦5年(1755年)心労により在位6年27歳で急死してしまいました。
重年には、加治木島津氏を継がせた息子で10歳の島津忠洪がいたので、江戸の継豊は忠洪に家督を継がせます。こちらが蘭癖大名として名高い8代藩主島津重豪です。
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77年も藩主として君臨!蘭癖大名8代目、島津重豪
島津重豪は延享2年(1745年)薩摩藩分家の加治木島津家当主、島津久門(重年)の長男として誕生します。
6代藩主島津宗信が22歳で急死したため、父の重年が7代藩主となると加治木島津家当主となりますが、宝暦5年(1755年)に重年も27歳で病死したので、11歳で8代目の薩摩藩主となりました。
年少の頃は、祖父の継豊が後見していましたが、宝暦10年(1760年)に継豊が死んで3年後から親政を開始します。重豪は万事に派手で豪華な事が好きで、長く江戸にいたので開明的な性格で、特に蘭学を愛好しました。
そして藩主の身でありながら自ら長崎のオランダ商館に出向いたり、オランダ船に乗り組んでいます。
こういう人なので、故郷薩摩藩の保守的な気風に我慢ならず藩校造士館や天文館を設立し、暦学や天文学を研究。蘭学の精神を受け継いで学問を武士階級のみのものとせず百姓、町人にも門戸を開きました。また医療技術を推進すべく安永3年(1774年)には医学館も設立しています。
政治面では、それまで歴代藩主が嫌っていた将軍家や有力大名との縁組を積極的に推進し、11代将軍家斉に娘茂姫を娶らせて御台所とし、中津藩や福岡藩のような外様の大藩に息子達を養子として送り込み、江戸後期の政界に絶大な影響力を持ち外様大名ながら高輪下馬将軍と称されます。
しかし、これらの政策実現には、もちろん莫大なお金が必要でした。元々、財政がひっ迫していた薩摩藩には大名貸しも借金を断り、重豪はついに市井の高利貸しからも借金します。膨れ上がった借金は500万両、現在価値で5000億円となり、次世代の藩主を苦しめる事になりました。
天明7年(1787年)重豪は家督を長男の斉宣に譲って隠居しますが、これは現役の藩主が将軍の岳父であるという事を周囲が憚り、重豪に勧めたせいで、本人には隠居する気はなく、その後も大御所として政治を動かします。
後継者になった斉宣は文化6年(1809年)樺山主悦や秩父太郎のような近思録派を登用して緊縮財政を開始し、重豪が進めてきた政策を反故にし出すと重豪は激怒。斉宣を隠居に追い込んで孫の斉興を擁立。改革派の樺山主悦には死罪を申し付ける近思録崩れという弾圧事件を起こしました。
しかし、晩年には薩摩藩が倒産寸前になっている事を自覚してか、下級武士出身の調所広郷を登用し薩摩藩の天保改革に取り組んでいます。80歳を越えても自分の足でどこでも出歩き、読書するのにメガネもいらないという老いて増々盛んな重豪でしたが、流石に彼も人間で天保3年(1832年)夏に病に倒れ、翌年1月に89歳の長寿で大往生を遂げました。
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父重豪に強制隠居させられるも隠忍自重した9代目、島津斉宣
島津斉宣は安永2年(1774年)8代藩主島津重豪の長男として江戸で誕生しました。天明7年(1787年)に重豪が隠居したので家督を継いで9代目の藩主となりますが、重豪は実権を手放しませんでした。
文化2年(1805年)には「鶴亀問答」を著して藩政改革の方針を示しますが、重豪の意に反した緊縮財政だったので重豪は激怒し、斉宣を強制的に隠居させ、孫の斉興を10代藩主として擁立し後見人として実権を握ってしまいました。
斉宣は、国元に帰ればまた騒動を起こすとして帰国が許されず、天保12年(1841年)江戸の薩摩藩下屋敷で69歳の生涯を閉じます。
英邁な重豪とはタイプが違いますが、斉宣は彼なりに倒産寸前の薩摩藩を建て直そうとした名君であり、理不尽な目にあっても力ずくで父に反逆しようとはせず結果として薩摩藩にお家騒動を起こさないで済みました。
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藩の財政を立て直すも後継者問題で揉める10代目、島津斉興
島津斉興は寛政3年(1791年)9代藩主、斉宣の長男として江戸で誕生しました。文化6年(1809年)近思録崩れの責任を取る形で、父、斉宣が藩主の地位を下ろされ祖父重豪の後見で家督を継ぎ18歳で10代目薩摩藩主となります。
しかし重豪には、政権を手放す気はなく、斉興は飾り物の藩主として24年間も過ごす事になりました。天保4年(1833年)祖父の重豪が89歳の天寿を全うして大往生し、永遠に続くかと思われたお飾り藩主の時代が終わります。
ところが斉興に残されたのは祖父が残した莫大な借金の解消でした。斉興は、重豪が登用した経済官僚、調所広郷を重用して財政改革に取り組み、借金を250年無利息分割払いとして事実上利子を踏み倒して借財を大幅に削減。
同時に清朝との密貿易や黒砂糖の専売強化、贋金づくりなどに精を出し薩摩藩の借金は解消し財政はⅤ字回復しました。功労者となった調所広郷ですが、密貿易を幕府に嗅ぎつけられ、斉興に責任が及ばないよう服毒自殺しています。
これまた名君になりそうな斉興ですが、晩年に一波乱が待ち受けていました。
斉興には正室弥姫との間に嫡男、島津斉彬が誕生していましたが、斉興は側室であるお由羅の方との間に生まれた久光を溺愛し、彼を後継者に考えていたのです。
こうして、藩内は斉彬派と久光派に二分し、追い込まれた斉彬派がお由羅が久光を世継ぎにするように斉興を誑かしていると邪推しお由羅殺害を計画。これが藩主斉興の知る所となり、斉彬派が切腹などの処分を受けるお由羅騒動となります。
ただ、斉興は久光を溺愛していたから藩主に据えようと考えていただけではなく、嫡男の斉彬が英邁で蘭学好きという祖父、重豪によく似た性質である事から、苦労して建て直した薩摩藩の財政がまた傾くのではないかと恐れたとも言われます。
斉興は、なかなか隠居せず、嫡男斉彬は40歳を超えても家督を継げない状態でしたが、斉彬と親しい老中阿部正弘が動き斉興に従三位の任官を約束して隠居の花道を用意し、斉興は渋々斉彬に藩主の座を譲り、斉彬は11代薩摩藩主となりました。
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藩主在位7年で偉大な業績を残した11代目、島津斉彬
島津斉彬は幕末物の映画やドラマで馴染みの人物です。文化6年(1809年)10代藩主島津斉興の長男として江戸薩摩藩邸で誕生しました。父である斉興が中々隠居しなかった関係で、斉彬は藩主になる前二度しか薩摩には戻らず江戸生まれ江戸育ちでした。
また青年期まで曾祖父である8代藩主島津重豪に可愛がられ、蘭学に興味を持つ事になりますが、この事から薩摩藩内では斉彬を重豪時代のように蘭学に傾倒し薩摩藩に莫大な借金を造るのではないかと警戒する動きが生まれました。
父である斉興は斉彬を嫌い、側室のお由羅の間との子である久光を寵愛、久光を藩主に据えようと考えていたとされ、藩内では斉彬派と久光派が激突し、お由羅騒動のような後継者問題も起きていました。
斉彬は斉興が藩主の座を下りない為に40歳を過ぎても世継ぎのままという異常事態でしたが、お由羅騒動を受けて斉興の叔父にあたる福岡藩主黒田斉溥が、斉興に藩主の座から降りてもらうように周旋を開始。
また、斉彬と近しい老中、阿部正弘、宇和島藩主、伊達宗城、福井藩主、松平慶永らが斉興の説得に動きます。嘉永4年(1851年斉興が隠居し斉彬が11代藩主に就任しました。
藩主となった斉彬は薩摩藩の富国強兵を推進。洋式帆船、反射炉、溶鉱炉の建設、地雷や水雷、ガラス、ガス灯の製造など集成館事業を興します。
また、土佐の漂流民で琉球から薩摩藩へ移送されたジョン万次郎を講師として藩士に造船法を学ばせ安政元年(1854年)洋式帆船いろは丸を完成させたり、西洋式軍艦「昇平丸」を建造して幕府に献上しています。
斉彬は西洋の強さの秘密を理化学に基づく工業だと正確に見抜き、ペリー来航前から蒸気機関を研究。それは日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実しました。
また斉彬は、松平慶永や伊達宗城、山内豊信、徳川斉昭、徳川慶恕らと藩主就任以前から交流して友好関係を築き、外様大名でありながら幕政にも積極的に口を挟みます。そして、老中、阿部正弘に幕政改革(安政の幕政改革)を訴えました。
斉彬は、一部の譜代大名が日本全体の政治を決める幕府の古臭いしきたりを打破して、広く諸大名に意見を求めるべきだと考え、西洋列強の侵略の脅威を打破するのには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張します。
さらに養女の篤姫を13代将軍徳川家定の正室として送り込み、幕府の方針を公武合体、武備開国に導こうと画策しますが、その矢先に徳川家定が死去。老中阿部も難しい局面を残して病死しました。
家定死後は14代将軍を巡り、斉彬は開明派大名と共に英明の誉れ高い一橋慶喜を擁立しますが、大老に就任した井伊直弼が推す徳川家茂に敗れます。
斉彬はここに至って政略による幕府の指導を諦め、薩摩に戻って藩兵5000を引き連れて上洛し、圧力を掛けようとしますが安政四年(1858年)49歳で急死しました。
斉彬は薩摩藩の工業化ばかりでなく、西郷隆盛のような明治維新を成就するのに欠く事が出来ない人材を教育しています。また、斉彬が僅か7年間の藩主時代に手掛けた多くの事業は、明治維新後に近代化事業として全国規模で行われる事業の先駆けでした。
斉彬は遺言を残していて、それにより12代藩主は異母弟である久光の子、島津茂久(忠義)と決定しました。
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自己主張せず、部下を信じて維新を成就させる12代目、島津忠義
島津忠義は天保10年(1840年)島津家の分家重富家当主、島津忠教(久光)の長男として誕生します。実は忠義とは明治に入ってから改名した名前ですが、こちらが有名なので、こちらの記事では忠義で通します。
11代藩主である島津斉彬と父久光の間では、誰が藩主を継ぐかで藩を二分する争いがあったので、斉彬は藩内融和を考えて久光の子の忠義を養嗣子としていました。そんな中、斉彬が毒殺を疑われる病状で安政5年(1858年)に急死。遺言により忠義は18歳で12代藩主となりました。
斉彬には3歳の哲丸がいて、哲丸が成長すれば忠義も隠居して藩主を譲る事になりそうでしたが、哲丸はまもなく病死します。しかし忠義に政治の実権はなく藩父と呼ばれた父の島津久光が薩摩藩の政治の主導権を握ります。
ただ、世の中はすでに下克上の幕末の風雲にあり、藩父である久光ですら思うように西郷隆盛や大久保利通を動かせない状態で、忠義が藩主として指導力を発揮できる時代ではなかったとも言えます。
忠義も聡明な人物でそれを弁え、自ら自己主張するような事はなく西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀の進言を容れ、自身が表舞台に立つ事を避けていました。こうした自己主張がない藩主だったからこそ、薩摩藩は討幕派の急先鋒として維新で指導的な役割を果たせたと言えます。
大政奉還後も、鳥羽伏見の戦いや版籍奉還では西郷などの意見を容れて行動し廃藩置県後は公爵となって東京住まいとなりました。その後も西南戦争など薩摩藩の騒乱で中立を貫き、出来る限り波風を立てずに暮らし、明治30年(1897年)58歳で鹿児島県で病没します。
自らの判断はしないものの、西郷や大久保を信じて任せ、維新の成就に功績があり死後、国葬にされています。
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12代全ての藩主に共通する事
さて、初代島津家久から12代島津忠義まですべての藩主を見てきました。ここから、島津に暗君なしの共通点を見出す事が出来るでしょうか?一番大きな共通点は、すべての藩主がお気に入りの家臣に政治を丸投げするような事が無かった点が挙げられます。
暗君が出る藩では、必ずお気に入りの重臣がいて、そいつが政治を私物化し後継者問題に口を挟んで最悪改易まで突き進みますが、島津家ではそういう佞臣がはびこる余地がありませんでした。
もう1つは多くの藩主が個人の願望より藩の利益を優先する判断をしている事です。普遍的なトラブルである父子の軋轢は、島津重豪と島津斉宣、島津斉興と島津斉彬などが出てきていますが、一方が折れ我慢する事で大きな騒乱になる事を阻止しています。
自身も病弱だった5代藩主島津継豊は、相次ぐ息子の病死にめげず、孫の8代藩主島津重豪を補佐し、薩摩藩を支え続けています。薩摩藩は、佞臣を重用せず、常に私欲よりも藩の繁栄を第一に考えるという事を全ての藩主が徹底した結果、島津に暗君なしという理想の状態を生み出したのです。
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激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末」
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今回は、島津に暗君なしは本当なのかについて、12代全ての薩摩藩主を調べて、それが事実である事を突き留めました。私欲を抑え全体の繁栄を第一とするというのは、薩摩藩のみならず、上手くいく組織や国家は全て同じであるような気がしますね。
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