徳川家康にもっとも寵愛された謀臣が本多正信です。戦場での活躍はほとんどありませんが、武田信玄の遺臣を徳川に吸収したり、本願寺を東西に分裂させて勢力を削いだり、家康の征夷大将軍宣下を実現したり、徳川260年の太平を築くのに貢献しました。
しかし、あまりにも家康、秀忠に寵愛された事で本多家はライバルの憎悪を受ける事になり、息子の正純の時代に決定的に没落してしまうのです。
この記事の目次
本多正信の生涯
本多正信は天文7年(1538年)本多俊正の次男として三河国で生まれました。桶狭間の戦いで家康に従軍、丸根砦を落とす際に膝に傷を負い、以来、片足を引きずるようになります。三河一向一揆では家康と敵対して戦い一揆が鎮圧されると加賀国に出奔しました。
加賀では一向一揆の将として織田信長と戦ったとする説もあるそうです。その後、大久保忠世のとりなしで家康の家臣として復帰し、最初は鷹匠として仕えました。帰参時期は早ければ姉川の戦いの頃で遅くても本能寺の変の前には家康の家来に復帰しているようです。
本能寺の変後は、武田氏が滅んで主が不在となった甲斐と信濃の武田家臣団の取り込みを担当し政治に従事。天正14年(1586年)に家康が豊臣秀吉に服属すると正信も秀吉により従五位下、佐渡守に任官されました。
家康の関東移封後は相模国玉縄に1万石を与えられ大名になります。関ケ原の戦いでは徳川秀忠の軍に従い信濃上田城で真田昌幸の善戦と川の増水に遭って立往生し関ケ原に遅れる失態となります。ただこの時、正信は上田城攻め中止を進言し、秀忠に入れられなかったそうです。そういう事もあってか正信は家康の後継者については秀忠ではなく次男の結城秀康を支持したと伝わります。
関ケ原の後は家康の征夷大将軍就任に向けて朝廷と交渉、またこの頃本願寺で前法主の教如と現法主准如が対立しているのを利用、本願寺の分裂に成功しました。家康が大御所となり駿府に隠居すると正信は江戸に残って二代将軍秀忠を補佐し、幕府権力維持のため、大久保長安粛清や大久保忠隣失脚に携わったとされますが、同時代の記録からは、正信主導の痕跡は窺えないようです。
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本多正信の別名は?
本多正信の別名には、通称の弥八郎のほかに佐渡殿があります。この佐渡は正信が佐渡守だった事が理由ですが、それ以外にも家康の好きなモノとして「佐渡殿、鷹殿、お六殿」として家康が最も愛している存在の筆頭に挙げられているのが大きいようです。
ちなみに鷹殿とは、家康が愛好した鷹狩りで、お六とは家康の最晩年の側室で15歳頃から70歳を過ぎた家康の側室として寵愛を得ていました。しかし家康公70歳を過ぎて15歳の側室に夢中になるとは絶倫ですね。
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本多正信の家紋は?
本多正信の家紋は、本多葵と呼ばれています。デザインとしては丸に三枚の立ち葵が描かれたもので、家康の葵紋によく似ています。
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本多家のルーツは誰なの?
本多家のルーツは、太政大臣藤原兼通の子、顕光の子孫、藤原秀豊が豊後本多を領有して本多秀豊と名乗った所からだとされていますが実際の出自はハッキリしていません。戦国時代になると本多氏は西三河の国人領主として松平氏に仕えました。
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本多正信の逸話を教えて
本多正信は非常な切れ者と評判だったようです。一時、正信が仕えていた松永久秀は「徳川のサムライは多くは武勇一辺倒なり。しかし、正信のみは剛にあらず柔にあらず卑にあらずで非常な大器である」と評価しています。
また、正信は三河家臣団から嫌われる存在であり、同族の本多忠勝からは「あの本多とは無関係」とまで毛嫌いされていましたが、家康は正信を非常に重んじて「友」と呼んだとされます。
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正信激白!石田三成は徳川家の大恩人
本多正信の人間性が見える逸話が、石田三成の子である重家の処分でした。家康は西軍の実質的指導者である三成の嫡男、重家を殺し後顧の憂いを断ちたいと望んでいましたが、重家は逸早く頭を丸め出家し恭順を誓っていたので、これを殺すと天下の信を失うと悩んでいました。
家康が正信に相談すると正信は「三成は徳川の為に大功を立てたので、何が何でも重家だけは赦すべきです」と答えました。家康が「三成が徳川の為にどんな手柄を立てたのか?」と聞くと正信は「されば三成めは西国大名をホウキでかき集め関ケ原にて無用の戦を起こしました。そのお陰で上様は日本六十余州を手に出来たのです。誠に大手柄と言えましょう」と答えました。家康は頷き「佐渡の言い分には一理ある」として重家を助命したそうです。
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本多正信はどんな性格?
本多正信は極めて思慮深く、そして用心深い性格でした。正信の領地は玉縄藩1万石で家康の為に尽力したにしては極めて少ないですが、これは家康がケチだからではなく、加増の話があっても毎回、正信が断っていたからだそうです。
正信は自分の智謀が家康に頼りにされると同時に恐れられている事を知っていて、謀反を起こしても大した事が出来ない1万石に甘んじていたのです。そのため正信が生きている間は家康も秀忠も正信を厚遇、数々の謀略を立てながら畳の上で死ぬことが出来ました。
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本多正信の死因は?
本多正信の死因は分かっていませんが、家康を超える79歳という当時としては長寿で死んでいる事から老衰と考えられます。また、その死は家康の死から僅かに2カ月後でした。家康の死後にはすでに自分の死期を悟っていたのか、嫡男の正純に家督を譲り、慌ただしく世を去っています。
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本多正信の死後、本多家はどうなる?
本多正信の死後、家督は本多正純が継ぎます。正信は正純に対し加増の話があったら3万石までは家のために受けてもよい。しかし、それ以上の加増を受けると家を滅ぼすもとになるから受けるなと遺言しました。ところが正純は才能を過信して戒めを破り、宇都宮15万5000石を与えられます。
ここから正純は奉公不足など、様々な難癖をつけられ、実際の越権行為もあり、宇都宮15万5000石を没収。さらに石高を千石に削られた上に監禁状態で出羽国横手に幽閉され73歳で失意のうちに生涯を閉じました。
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本多正信の死
本多正信の死は当人にとっては安楽なものでしたが、家康と秀忠に厚く信じられた事で幕臣の中で権力が本多氏に集中してしまい、他の家臣の嫉妬と恨みを買う事になりました。正信はそれを自覚していたからこそ、自重して慎重に振る舞っていたのですが嫡男である正純には伝わらず、家の没落を招いたのです。
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本多正信の歴史的影響
本多正信の死後、嫡男の本多正純が出羽国横手に軟禁された事で正信系本多氏全体に罪が及び、多くの本多氏が政治の中枢から遠ざけられ、代わりに本多氏に阻まれて出世できなかった土井利勝が台頭。青山忠俊、酒井忠世等と共に3代将軍家光の治世を補佐していくようになりました。
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本多正信の子孫はどうなった?
出羽国横手に幽閉された本多正純の長男本多正勝は1630年に正純に7年先立って配流地の横手で病死します。病死した本多正勝の嫡男、本多正好は外祖父戸田氏鉄に引き取られて摂津尼崎、美濃大垣と移住し、1640年に戸田家を出奔。その後流浪の生涯を送り、旗本安藤直政知行地である武蔵国那珂郡内の代官に落ち着きました。子孫は、和田姓と木村姓を称して旗本安藤家の重臣として明治維新後まで存続、また正勝次男本多正之の家もが3000石の旗本で明治維新を迎えています。
本多正信の三男、本多忠純は1605年に下野国榎本藩1万石を与えられて大名になり、その後、大坂の陣の戦功により2万8000石にまで加増されて正純改易後も存続します。しかし3代藩主の本多犬千代が1640年に5歳で没し血筋が絶えて改易となりました。
本多正信の次男本多政重は、若い頃に徳川家を出奔した後、関ヶ原の戦いで西軍に参加。その後、直江兼続の養子になるなど波乱の生涯を送り、最終的に金沢藩前田家の筆頭家老加賀本多家を興して5万石を拝領、明治維新後まで血筋を残しています。
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本多正信の末裔はいるの?
本多正信の末裔としては、次男である本多政重の家系が前田家筆頭家老となった事もあり、明治維新後も存続。現在当主は15代目の本多政光という人で加賀本多博物館の館長を務めています。
また本多政光さんには娘が3人いて、長女が婿養子として金沢学院大学教授の本多俊彦さんを迎えています。本多俊彦さんは加賀藩や本多家の研究をおこない、「福井藩の知行宛行状について」「加賀藩における本多政重登用の再検討」「加賀藩知行宛行状の古文書学的検討」などの加賀藩や本多家についての著書もあります。
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日本史ライターkawausoの独り言
本多正信は自分が切れ者であり、その為に家康や秀忠に寵愛されている事を十分に知っていて、その事が周囲からの激しい嫉妬を産んでいる事も理解し、生涯無欲に慎重に振る舞い天寿を全うしました。しかし、子孫はそうはいかなかったようです。
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