NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人、序盤はコメディ要素満載だったのですが上総広常が誅殺された辺りから、毎回のように登場人物が殺され鬱大河と呼ばれるようになります。
その悲惨さは戦国時代の大河でも及ばない苛烈さですが、そもそも、どうして鎌倉殿の13人は、こんなに悲惨なんでしょうか?
鎌倉時代に特異な因習 族滅
鎌倉殿の13人を悲惨にしているのは、なにも脚本のせいだけではありません。ドラマの舞台である鎌倉時代が、凄惨な権力争いの連続で大勢の人物が殺害されているからです。特に、鎌倉時代の殺戮を容赦がないものにしているのは、この時代に存在した異質な因習である族滅でした。
族滅とは「一族滅亡」の意味で、何か事件が起きると関与した当人だけではなく、その家系全てが同じ罪になり皆殺しにされてしまう事を指しています。
ほとんど例外なく助命が許されないので鎌倉幕府の敵となった御家人は、女子供まで動員して戦い、敗北すると生き残った者同士が差し違えて死んでしまうのです。
しかし、一体どうして鎌倉時代に族滅という考えが生まれてきたのでしょうか?
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族滅の定義
ここで、族滅について定義を明確にしたいと思います。鎌倉時代における族滅とは、大体、家督を継いだ嫡男系統の断絶の事です。
しかし、家制度が形骸化した現在日本では、家督も嫡男もちんぷんかんぷんでしょうから、仮に日本で一番有名なサザエさん一家で解説しましょう。
磯野家の家族構成は、当主波平と正室のフネ、長女でフグ田家に嫁いだ長女のサザエ、小学生で嫡男のカツオ、次女のワカメ、そしてフグ田家の当主であるマスオとサザエとマスオの間に生まれたタラオの7名です。
この場合、磯野家族滅とは波平とカツオが滅ぼされる事を意味します。マスオもタラオも男子ではありますが、フグ田姓なので磯野家とは無関係なのです。
もっとも、その場合でもワカメが残っているので、ワカメが婿養子を取って磯野家を再興させる可能性は残りますが、ワカメが他家に嫁ぐか独身のまま死ぬと磯野家は滅亡します。
しかし、この場合「波平には兄の海平がいるじゃないか!あっちは滅亡していないのに、どうして磯野家滅亡になるんだ」という疑問が出るでしょう。
ここがややこしいのですが、普通「族滅」という場合、地上から磯野氏を抹殺するという意味ではなく、磯野氏という大きなカテゴリーの中で、波平が興した磯野波平家「だけ」が子孫を残せずに滅びると考えて下さい。
実際、壇ノ浦の戦いで平家が滅んだというケースも、日本に存在する全ての平氏一門が滅んだのではなく、平清盛を父とする平宗盛の兄弟や子弟が途絶えたという意味になります。
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それでも悲惨な族滅
磯野家を引き合いに出すと、なーんだ波平とカツオが死ぬと族滅なのか、思ったよりも大した事ないと思ってしまいます。しかし、鎌倉時代の有力御家人ともなれば、妻を何名も抱え、男子だけで10名以上という事もザラです。
また、当主が長生きし、家督を継いだ嫡男に子供や孫が生まれたなら、さらに卑属が下に連なる事になり族滅対象は、数十人から百人以上に膨れ上がります。
それに、鎌倉時代は一族の代表、惣領の下に親戚縁者が序列を作って団結するので武士団は家族であると同時に戦士でした。だから合戦では一族が集結し敗北すれば全員で自害という事になりやすく、被害は数百人に膨れ上がってしまいます。
鎌倉時代は、個人より家の比重が遥かに重いので家が没落すると、仕官もできず土地を奪われ悲惨な境遇に落ちてしまいます。そんな惨めな思いをするくらいなら一族と運命を共にしようと捕らえられる事なく死んでしまう者も多いのです。
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鎌倉時代に族滅された有力御家人
では、鎌倉時代に族滅やほぼ族滅の悲運にあった有力御家人には誰がいるでしょう。年代順に並べてみると、
年代 | 名前 | 本拠地 | 族滅数 |
1183年 | 上総広常 | 上総国 | 2名(推定) |
1199年 | 梶原景時 | 相模国 | 33名 |
1203年 | 比企能員 | 武蔵国 | 11名(推定) |
1205年 | 畠山重忠 | 武蔵国 | 130名 |
1213年 | 和田義盛 | 相模国 | 234名 |
1247年 | 三浦康村 | 相模国 | 500名余 |
1285年 | 安達泰盛 | 武蔵国 | 500名 |
1333年 | 北条一族 | 相模国 | 800名 |
このような感じで、最後の最期にライバル御家人を族滅してきた北条氏が自害して果てる所に因果応報を感じますね。ただ、これらの御家人で完全に族滅したケースはないようで、大ダメージを受けながらも、子孫の代で再び立ち上がっています。
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族滅の共通点は相模と武蔵
上の表を見ていると、共通点に気が付きます。北条氏に族滅された御家人の勢力基盤が武蔵と相模に集中している事です。
実は源頼朝以来、武蔵と相模は鎌倉武士団の中核でこの武士団を掌握しつつ、過大な権力を与えない事が頼朝、さらには北条氏の政策になっていました。
北条得宗家(義時の血筋)では、嫡男が代々相模太郎と名乗りますが、それだけ相模の領有が重大だったのです。
鎌倉幕府の有力御家人には、結城氏や武田氏、足利氏、宇都宮氏、小笠原氏、佐々木氏などもいますが、これらの武士団は相模と武蔵に地盤がないので族滅には至らなかったと言えるでしょう。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は鎌倉時代の権力闘争を悲惨にした族滅について解説しました。その後の日本史でも、時々、族滅は見られますが基本は総大将が切腹し責任を取れば、以下は許すという措置が取られました。
関ケ原の事実上の総大将、石田三成にしても三成は斬首ですが、子の重家は出家を条件に助命されていて合戦に参加していない三成の血縁者で処刑されたものはいません。
室町時代では、度々、守護大名と将軍家の間で合戦がありましたが首謀者の守護大名は殺されず、領国を減らされるだけに留まっています。この風潮は、やはり鎌倉時代の族滅があまりに不毛な結果を産むとして忌避された結果かも知れませんね。
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