2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも出てくる源平の戦い。映画やドラマで描かれる源平合戦は勝者になる源氏の視点から解説される事が多いです。しかし、逆に平氏の側から源平合戦を見てみると意外な事実が分かります。
吉川弘文館 永井晋著「平氏が語る源平争乱」を参考に平氏目線から治承寿永の乱を分かりやすく紐解いてみましょう!
※こちらの記事は、源平合戦を平家の側から見てみると意外な事が分ったよpart2です。
Part1を読み飛ばしている方はこちらからどうぞ!
前回記事:源平合戦を平家の側から見ると意外な事が分かる!平氏目線の治承・寿永の乱【前半】
豪華絢爛な平家一門が系図でスッキリ分かる!
この記事の目次
後白河法皇の復活
平氏に大勝利した木曾義仲は意気揚々と京都に向けて進撃し延暦寺を味方につけていました。とても防ぎきれないと観念した平氏は平安京の放棄を決意。7月25日、後白河法皇と安徳天皇と三種の神器を擁して福原へ移動し、そこから西海に落ちるつもりでした。
ところが政治的嗅覚が鋭い法皇は平氏と同行せずに源資時1名を伴い比叡山に非難します。
平氏はやむなく安徳天皇と三種の神器を擁して都落ちする事になりました。この都落ちする平氏を狙い摂津源氏の多田行綱が襲撃の機会を狙いますが、平氏に思わぬ助け舟が出ます。後白河法皇が平氏追討よりも三種の神器と安徳天皇の身柄を最優先し、行綱に対し瀕死の平氏に襲い掛かる事を禁止したのです。
これにより行綱は通せんぼは出来ても平氏を襲う事は出来なくなり、平氏は被害を受ける事無く福原に退く事が出来ました。以後も後白河法皇は南下してくる頼朝に対し、三種の神器の確保と安徳天皇を無傷で確保して自身が擁立した後鳥羽天皇へ禅譲させるプランを守るように要求しました。
後白河法皇は平氏の滅亡を望まず、頼朝と対立させて自分の地位を維持しようと考え平氏の勢力は温存される事になります。
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朝日将軍木曾義仲
寿永2年7月28日木曾義仲は平氏を追い払い入京を果たしました。ところが混成部隊である義仲の軍勢は飢饉の影響下にある畿内で十分な食料を得られず、入京すると同時に略奪に入ります。
また、義仲は自らが擁している北陸宮を天皇にするように要求、高倉天皇の第四皇子の後鳥羽天皇を擁立しようとする後白河法皇とは最初から合わず、法皇は義仲を嫌い一刻も早く平氏を討伐せよと京都から出るように命令しました。
ところが義仲に協力した北陸の武士たちは上洛までが仕事で平氏追討には関心がなく、恩賞を貰って帰ろうとしたり、元々仕えていた貴族の部下になったりで義仲には従いません。
結局、義仲は上野や信濃の武者や新参の北陸道の武者だけを伴い平氏追討に向かいます。
おまけに後白河法皇は義仲と同時期に上洛してきた源行家と義仲を競わせようと画策し源頼朝の恩賞を1位、2位を義仲、3位を行家として待遇に差をつけ、義仲と行家を競わせようとします。
法皇の計略にハマった両者はいがみ合い協力する事無くバラバラに平氏追討に向かう事になりました。後白河法皇は最初からこの2名に期待せず、平氏と喧嘩させ弱らせてから頼朝を入京させようと考えていました。
しかし、頼朝は後白河法皇の要請に対し奥州平泉の藤原氏が背後にあり動けないと返答。代りに源範頼と源義経の軍勢を差し向ける事になります。
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勢力を盛り返す平氏と没落する義仲
平氏は、九州まで落ちますが賊軍になってしまった平氏に反旗を翻す九州御家人もいて、一時は九州から退き、平知盛の知行地であった長門国と粟田重能が支配する讃岐国の屋島の二国に拠点を置きます。
四国でも伊予水軍を持つ河野氏は反平氏でしたが、阿波、土佐、讃岐には平氏に味方する勢力があり平氏は次第に力を盛り返していきます。
一方で平氏追討を命じられた木曾義仲は散々な状態でした。混成部隊は、大部分が故郷に帰還したり、京都に残ったりで直属の兵力は小さくなり、源行家とは手柄を巡り協力できない状態。しかも後白河法皇は露骨に頼朝と連絡を取って蜜月状態となり、東海道と東山道、北陸道の諸国に軍政を敷く権限を与える宣旨を与えました。
これには北陸道を拠点とする義仲は我慢出来ず京都に戻って猛抗議。
「俺っちの北陸道を頼朝に与えるなんてワイルド過ぎる人事だろう?」
法皇はのらりくらりと義仲をあしらい北陸道については義仲に任せると宣旨を変更、頼朝もそれに合意しました。
後白河法皇の上洛要請には背後の奥州藤原氏の脅威を理由に拒否した頼朝ですが、代りに源義経の軍勢を派遣、名目は伊勢の平氏勢力の駆逐ですが義仲は「本当はワイルドな上洛軍なんだろう?」と疑い、平氏との戦いに集中できなくなりました。
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日食を利用して源氏を破る平氏
寿永2年(1183年)閏10月1日、木曾義仲指揮下の足利義清と海野幸広の率いる五千騎は千艘の船で平氏の水軍とにらみあっていましたが、突然に空がかき曇り太陽が月に覆い尽くされます。
田舎育ちの木曾義仲の兵は、日食を知らず真昼にもかかわらず暗くなる空を見て、この世の終わりだとパニックになります。逆に平氏は共に都落ちした陰陽師から日食の情報を得ており、日食と同時に源氏の船に襲い掛かり散々に撃破しました。これが天文史にも名を残す水島の合戦です。教養に勝る平氏の頭脳戦による鮮やかな勝利でした。
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ワイルドに見限られる義仲
これにより義仲は軍勢不足で平氏を積極的に攻める事が出来なくなります。
後白河法皇も「ちっ!あの口だけワイルド野郎、使えねー」と義仲を完全に見限り、上洛してくる義経軍を迎える準備をし、拠点の法住寺にも武者を集めて義仲に対し「平氏と戦いたいなら勝手に個人の資格でやれ!朕はもう知らん」と最後通牒を突きつけたのです。
あまりの手の平返しに義仲も我慢の限界に達し激怒「それはないだろう?法皇様。俺っちもさすがに怒るぜェ!」と怒りを爆発させ11月18日に法住寺を襲撃、後白河法皇を捕らえて幽閉しました。
一度は擁立した後白河法皇を幽閉した事で義仲の名声は平氏並みに没落します。11月28日、源行家も室山合戦で平氏軍一万騎に惨敗して摂津国に逃亡。源義仲の勢力はほとんど消滅しました。
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源義仲ワイルドに平氏と組むも滅亡
大ピンチに陥る義仲ですが、ウルトラCを考え付きます。「よく考えたら俺っちの最大の敵は頼朝だったぜ。ここは平氏と組んで平氏の軍勢を上洛させ一緒に頼朝を討つのがワイルドだろう?」
義仲の提案に対し平氏も「京都に戻れるならば」と歓迎の意向を示します。こうして義仲は軍勢を下がらせ平氏の軍勢を迎え入れ、平氏は福原まで戻りました。
元暦元年(1184年)1月13日義仲と平氏の和平が概ね合意となり、義仲は平氏の要求で源行家追討に合意します。しかし、1月20日、平氏軍が上洛する前に木曾義仲は源範頼と源義経の軍勢に宇治川の戦いで敗北、その後北陸道に落ちようとしますが途中で戦死しました。
この頃、平氏の勢力は山陽道の播磨、美作、備前、備中、備後、長門、周防の七カ国、山陰道の伯耆、出雲、岩見の三ヵ国、南海道の阿波、讃岐、土佐の三ヵ国、九州の豊前、肥前、肥後の三ヵ国と全国十六カ国に勢力を拡大しています。
さらに平氏は水島合戦と室山合戦で連勝し、西国の豪族の求心力を回復した上、粟田氏を通じて、瀬戸内海の水上権を掌握し、海戦に不慣れな源氏に対しアドバンテージを保有していました。
こうして義仲が滅び、源義経と範頼が京都に入った事で後白河法皇が推す後鳥羽天皇を奉じる源頼朝と安徳天皇と3種の神器を擁して京都奪還に燃える平氏の直接対決の火ぶたが切って落とされます。
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平氏、一ノ谷合戦で源義経に敗れる
平氏は福原に東進し一ノ谷に陣を構えます。後白河法皇は頼朝に対して三種の神器と安徳天皇の身柄確保を命じ、平氏追討の院宣を出しました。鎌倉の軍勢は大手を源範頼、義経には搦手をつかせます。
一ノ谷は背後に険しい山峰を連ねて入り口が狭く堅牢な陣地で大手の範頼は正攻法で攻めて膠着状態に陥りました。ここで搦手の義経が鉢伏山を登って迂回し、一ノ谷の城郭を眼下に見下ろす地点から逆落としを仕掛けて虚を突かれた平氏は敗北します。
一ノ谷の敗戦で平敦盛が熊谷直実と戦い討死、平重衡は源氏に捕らわれ総大将平知盛が辛うじて落ち延びました。後白河法皇は平氏の敗戦をとらえ非公式に三種の神器の返還と安徳天皇の禅譲による皇位継承を提唱しますが平氏方は拒否。
以後、交渉は打ち切られ戦いは壇ノ浦へと突き進みます。
元暦元年8月8日、源範頼は平氏追討のため山陽道に進撃し、10月12日には安芸国衙を掌握。12月7日、藤戸合戦で佐々木定綱が児嶋半島に進出した平行盛を退けました。しかし、範頼は瀬戸内海を支配する平氏の勢力に苦戦し飢饉による兵糧不足にも苦しみ、一度九州に渡って反平家勢力緒方氏と協同し北九州の平氏勢力を制圧。
文治元年(1186年)2月18日、源義経を大将とする追討使が摂津国を出発。平氏の本拠地である讃岐を陥落させるべく、平氏が支配する瀬戸内海を渡海しました。ところが義経にとっては幸運にもその時、平氏は屋島を空にしていて義経軍は無傷で阿波に上陸します。
そして2月19日、屋島内裏を急襲し1割近い犠牲者を出しながら奮戦し平氏を彦島に退却させました。そして2月21日、屋島救援に駆け付けた平氏の軍勢を志度寺で破ります。平氏は支え切れずに退却し合戦は壇ノ浦に進んでいきました。
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平氏粟田重能の裏切りで力尽きる
壇ノ浦の戦いで平氏は残る力を振り絞り、大型の宋船を中央に配置して、ここに安徳天皇以下の貴人が乗船しているように見せかけて源氏の兵船を集中させ、その後は第四陣まで組んだ兵船からの一斉射撃で源氏を壊滅させようと目論みます。
平氏第一陣の山鹿秀遠は遠くから矢を放って源氏の兵船を圧倒し海戦を有利に進めますが、ここで第二陣を任されていた四国水軍粟田重能が裏切り、同時に「宋船は囮だ」と源氏方に大声で知らせてしまいました。
これにより第三、第四の水軍は進めなくなり大混乱、第一陣の山鹿秀遠の船団は孤立し、平氏の水軍は源氏の船に接近され至近距離からの矢で次々に討ち取られます。平氏はここから盛り返す事なく僅か数時間の戦闘で安徳天皇や三種の神器の1つ天叢雲剣と共にほとんどが海の藻屑と消えました。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は源平合戦を平氏の目線から見ると題し治承寿永の乱を出来る限り分かりやすく解説してみました。源氏目線だとひたすらに源氏に押されて無策の中で自滅したかに見える平氏ですが富士川合戦あたりは兎も角、度重なる合戦で経験を積み上げつつ軍制を改革、また平氏に味方する勢力も多く、かなり善戦していた事が分ると思います。
そして、源氏に比較してひたすらサムライの美意識を追い求め死に花を咲かせる事に固執した平氏の武者の最期はもののあわれを感じさせ印象に残りますね。
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