大姫は鎌倉幕府を開いた源頼朝と尼将軍、北条政子の間に長女として生まれました。
冷酷な政治家の父と男も真っ青な烈女の間に生まれた女性なので、さぞかしパワフルな女傑かと思えば、彼女は鎌倉時代でも一、二を争うほど純愛を貫いて死んだ悲劇の女性でした。
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治承2年伊豆で誕生
大姫は治承2年(1178年)頃、当時、伊豆の流人だった源頼朝と北条政子の間に長女として誕生します。ちなみに大姫とは固有名詞ではなく当時は豪族の長女をそう呼んだそうです。
大姫から見て祖父にあたる北条時政は、元々は頼朝の監視役で政子と頼朝の縁談には猛反対したそうですが、結局は大姫が誕生して黙認せざるを得なくなったのかも知れません。
流人だった頼朝ですが、大姫が2歳の頃には反平家の旗を掲げて挙兵し、平家に圧迫を受けていた坂東八平氏の豪族をまとめて、鎌倉に入り瞬く間に鎌倉殿と称される一大勢力の棟梁となり、大姫の運命も大きく変化する事になりました。
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六歳で源義高と縁組される
寿永2年(1183年)鎌倉勢力と緊張関係だった源義仲は嫡男で11歳の義高を人質として鎌倉に送りました。大姫は当時6歳でしたが、将来的に義高と婚約する事が取り決められたのです。
その事を大姫が意識したかどうかは分かりませんが、大姫は義高を慕いとても仲が良かったようです。しかし、二人の関係は残酷な運命に引き裂かれる事になりました。
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義高の父、義仲が源範頼に討たれる
嫡子、義高を鎌倉に送って後方の安全を確保し、平家を都落ちさせて上洛を果たした義仲ですが、寄せ集めの軍勢は統制が取れず、飢饉で食糧不足の京都で乱暴狼藉を繰り返します。さらに、義仲自身も皇位継承問題に口を挟むなど実力者、後白河法皇に嫌われました。
平家を滅亡させて信用を回復したい義仲ですが、北陸道で味方した武士団は、上洛後に京都で貴族に仕えたり、北陸に帰還するなどして兵力は減少。さらに平家きっての名将、平重衡の反撃にあい各地で敗北し戦線は膠着状態に陥ります。
法皇は義仲を見限り、鎌倉の頼朝に上洛するように密書を送ります。頼朝自身は動きませんが弟の義経と範頼を近江へ派遣しました。窮地に陥った義仲は後白河法皇を襲撃して幽閉し傀儡政権を樹立しますが、もはや求心力はなく、味方も集まらず宇治川の戦いで範頼と義経の軍勢3万に敗れ粟津で討死しました。
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大姫は義高を逃がそうと大胆な行動に出る
鎌倉の頼朝は、ここで将来の禍根を断つために義高を殺す事を決意します。義高から見れば頼朝は父の仇であり、上洛する頼朝から見れば後白河法皇を幽閉した義仲は朝敵でした。
7歳の大姫は侍女たちから義高が殺されると聞くと、なんとか義高を逃がそうと明け方に義高を女房姿に変装させ、侍女たちが取り囲んで屋敷から出すとひづめに綿を巻いた馬に乗せ鎌倉から脱出させました。
それにしても僅か7歳の少女とは思えない大胆な行動力です。義高を助けたい思いがそうさせたのか、それとも父母に似て才気をもつ女性だったのでしょうか?
そして、義高と共に鎌倉に来た側近の海野幸氏を身代わりとして、義高の寝床から髻を出し、義高が好んで幸氏と双六勝負していた場所で双六を打ちます。屋敷の人は義高がいつものように双六をしていると思っていましたが、夜になり義高不在がバレました。
頼朝は激怒し海野幸氏を召し捕ると、堀親家等に命じて御家人を各地に派遣し義高を討ち取るように命じます。大姫は義高殺害の命令が下った事を知ると驚き、魂が打ち消されるほどの衝撃を受け寝込んでしまいました。
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義高死去を知り病に臥す大姫
必死に逃げた義高ですが親家の郎党の藤内光澄が追い付き、鎌倉から100キロほど北の入間河原で義高の討ち取り首を斬ります。ルートを見ると鎌倉から北上しているので義仲の本拠地である信濃に戻って再起を期したんでしょうね。この事実は、大姫には伏せられていましたが、どこからか大姫の耳に入り、姫は哀しみの余りに水も喉を通らないほどに衰弱しました。
日に日にやせ衰える娘を見て政子は激怒し「いくら主君の命令でも義高の処遇について大姫に相談してもよさそうなもので、それを無視して義高を殺したのは許せない」と頼朝に処罰を求め、頼朝は義高を殺した内藤光澄をさらし首にしています。
しかし、義高を殺した御家人をさらし首にしたところで義高が帰ってくるわけではありません。大姫は深く傷つき、その後、十数年以上も死んだ義高の思いに囚われては泣き暮らし床に臥す日々が続きます。
政子は義高供養と大姫の病状回復の為に、四方八方に手を尽くして祈祷や読経を命じますが何も効果はありませんでした。
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一条高能との縁談を拒否
建久5年(1194年)17歳になった大姫は小康状態を取り戻していました。その年の8月、頼朝の甥で貴族である一条高能が鎌倉に下ってきます。この一条高能は当時19歳、生母は頼朝の妹である坊門姫で縁戚関係でした。
政子と頼朝は、一条高能との縁談を大姫に勧めますが大姫は「そんな事をするくらいなら湖に身を投げる」と拒否され諦めます。
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後鳥羽天皇への入内の途中、20歳で病死
一方、頼朝は別の縁談を進めていました。関東においてはともかく全国的には基盤が盤石とは言い難い、鎌倉幕府の地盤を固めようと大姫を後鳥羽天皇に入内させようとしていたのです。
頼朝にはかねてからの盟友である九条兼実がいましたが、兼実はすでに娘を後鳥羽天皇の中宮にしていてライバルだったので、頼朝は意図的に兼実とは政敵である土御門通親や後白河法皇の寵妃丹後局に接近していきます。
ある時は、丹後局を屋敷に招いて政子や大姫と対面させ銀製の蒔絵の箱に砂金を300両、白綾30反など豪華な贈物をし、従者にまで引き出物を出す歓待ぶりでした。
さらに頼朝は妹が嫁いだ一条能保との参詣もキャンセルするなど、苦労して築いた京都の人脈を犠牲にしてまで大姫の入内を進めます。しかし、頼朝が頑張るだけ義高を慕う大姫の病状はひどくなり建久8年(1197年)8月28日に20歳の若さで帰らぬ人になりました。
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日本史ライターkawausoの独り言
人は多かれ少なかれ、長い人生の中で大失恋を経験します。その時は本気で死んでしまいたい程苦しみ悩むものですが、人は案外に強い生き物で苦しむだけ苦しんだら、また別の相手を見つけて新しい恋を開始するものです。
でも中には、生涯、この人1人と思い定めて誰とも交際せず人生を終える人もいます。大姫はそのタイプの女性だったのでしょう。たった1年間の義高との日々が大姫の人生の全てだったのです。
父母である頼朝も政子も大姫の義高への思いが、まさかそこまで強いとは考えもしなかったのでしょう。大姫のために良かれと始めた縁談で大姫が苦しみ、死んでしまうとは、人生とは時に残酷なものですね。
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