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大庭景親とはどんな人?石橋山で頼朝を破った平清盛の忠実な配下の生涯【鎌倉殿の13人】

31/01/2022


平清盛の忠実な部下だった大庭景親

 

大庭景親(おおばかげちか)相模国(さがみのくに)の有力な武士で、平清盛(たいらのきよもり)の忠実な部下として挙兵した頼朝(よりとも)を石橋山の戦いで撃破して窮地に追い込みます。しかし味方の梶原景時(かじわらかげとき)の裏切りで頼朝を取り逃がし、その後勢力を伸ばした甲斐源氏や房総(ぼうそう)で再挙兵し大勢力になった頼朝の軍勢に抗しきれず降伏、斬首される最期を迎えます。

 

大庭景親 鎌倉

 

今回は平家に忠誠を尽くし報われない最期を迎えた梶原景時を解説します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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坂東八平氏の支流大庭氏に誕生

 

大庭氏は坂東八平氏の流れを汲む一族で、相模国大庭御厨(おおばみくりや)下司(げす)職を受け継いでいました。下司というのは現場で働く事務職員みたいな意味で後世のような否定的な意味合いはありません。

 

源義朝

 

天養(てんよう)元年(1144年)源義朝(みなもとのよしとも)の郎党が相模国田所目代(さがみのくに・たどころ・もくだい)と配下の三浦氏、中村氏を率いて大庭御厨に侵攻しますが、この事件は朝廷からは不問にされます。大庭氏は、源義家(みなもとのよしいえ)の後三年の役から従軍した源氏方の武士団ですが、この侵攻騒ぎで景親は、三浦氏、仲村氏、そして源義朝に不信感を持ったのかも知れません。

 

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保元の乱で源為朝に挑むも完敗

炎上する城a(モブ)

 

大庭景親は保元(ほうげん)の乱(1156年)では義朝の軍勢に味方し兄の景義(かげよし)とともに白河北殿の西門を守る崇徳上皇方(すとくじょうこうがた)源為朝(みなもとのためとも)に挑みかかり、ここで後三年の役で源義家の配下して戦った勇者、鎌倉権五郎(かまくらごんごろう)景正(かげまさ)末裔(まつえい)であると名乗りを挙げたそうです。

 

日本の戦国時代の弓兵(兵士)

 

しかし、平安時代のガンダム源為朝は強弓(きょうきゅう)鏑矢(かぶらや)を放ち景義の左の膝を打ち砕き落馬させます。景親は落馬した兄を救い退散しました。戦いは後白河天皇方が勝利し、源義朝や平清盛が勝組となります。

 

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平治の乱で義朝と距離を置き相模で影響力を拡大

平清盛 鎌倉幕府

 

続く平治(へいじ)の乱では大庭景親が義朝に従った形跡はありません。そもそも保元の乱にしても、景親は義朝に自発的に従ったのではなく後白河天皇の命令で国衙から出陣しただけという説もあります。

 

朝廷(天皇)

 

平治の乱は義朝の敗北に終わり河内源氏は没落し、平清盛の伊勢平氏が権力を握ります。義朝に近い豪族三浦氏や中村氏は平家の天下では劣勢に立たされ、逆に義朝と疎遠な大庭氏は平清盛に接近し相模国でも大きな勢力を持ちました。

 

このような理由から景親は清盛に恩義を感じ、平氏家人(へいしけにん)として忠実に働く事になります。

 

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以仁王の乱を鎮圧し東国に帰還

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

治承(じしょう)4年(1180年)5月以仁王(もちひとおう)源頼政(みなもとのよりまさ)が平氏打倒の兵を挙げると、景親は足利忠綱(あしかがただつな)らと共に追討の任にあたり、これを破ります。

 

その後も在京していた景親は平家家人、上総介伊藤忠清(かずさのすけ・いとうただきよ)に呼ばれ、駿河国の長田入道(おさだにゅうどう)から北条時政(ほうじょうときまさ)比企掃部允(ひき・かもんのじょう)が伊豆の流人(るにん)源頼朝(みなもとのよりとも)を擁立し謀反を(くわだ)てているとする密書があったと知らされます。事実、頼朝は挙兵を準備し、その中には景親の兄、景義もいました。

 

8月2日に東国に帰還した景親は9日に佐々木秀義(ささきひでよし)を屋敷に招いて頼朝に謀反の疑いがあることを相談します。この時点で秀義の息子達は頼朝と通じており、驚いた秀義はただちに頼朝に使者を出し、頼朝は挙兵を早める事を決意しました。

 

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頼朝挙兵に成功し石橋山に向かう

源頼朝と手を組んでの挙兵する北条時政

 

8月17日、頼朝は挙兵し伊豆目代(いずもくだい)山木兼隆(やまきかねたか)の館を襲撃して殺害し国衙(こくが)を占領します。

 

しかし、この時点で頼朝の兵力は北条氏や佐々木氏、工藤氏の総勢300騎に過ぎませんでした。頼朝は相模の三浦氏の1000騎の援軍を待っていましたが、なかなか援軍は来ず、こちらから合流しようと部下の土肥実平(どひさねひら)所領、相模国土肥(ごう)に進出。酒匂川(さかわがわ)を越え三浦氏の衣笠館(きぬがさやかた)を目指し石橋山に差し掛かります。

三国志のモブ 反乱

 

大庭景親は頼朝を迎え撃つべく、弟の俣野景久(またのかげひさ)をはじめ渋谷重国(しぶやしげくに)糟屋盛久(かすやもりひさ)熊谷直実(くまがいなおざね)ら平氏方3000騎を集めて石橋山で頼朝軍と対峙。

 

10倍の兵力で源頼朝を圧倒する大庭景親

 

8月23日、三浦一族が頼朝に合流しようと進んできているのを知り、大雨の上にすでに日が暮れているにもかかわらず夜襲を仕掛けます。

 

大庭景親に敗北し洞窟に隠れる源頼朝

 

10倍の兵力を持つ大庭軍は圧勝し寡兵の頼朝は山中に逃げ込んで絶望的なゲリラ戦を展開しますが、すぐに追い詰められ洞窟に隠れました。

 

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側近の梶原景時の裏切りで頼朝を取り逃がす

大庭景親に敗れる源頼朝

 

景親は頼朝を捕らえようと山中を探させますが、側近の梶原景時が頼朝の存在を知りながら景親を別の山に誘導し頼朝を取り逃がします。窮地を脱した頼朝は土肥実平と共に舟で安房に逃亡しました。

 

武田信義 鎌倉殿の13人

 

その頃、関東では頼朝だけではなく、甲斐源氏の武田信義や信濃の源義仲など複数の源氏勢力が平家追討の軍を挙兵し平家方の目代や家人を殺して支配地域を拡大していました。

 

 

9月2日、ようやく福原に頼朝挙兵を知らせる早馬が届きますが、同時に石橋山の戦勝が届けられるなどしたので清盛は平家優位と考え軍の編制には緊張感を欠き、平家の分家である平維盛を総大将にした討伐軍が出される始末でした。

 

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息を吹き返した頼朝軍が2万騎以上に膨れ上がる

最強の寄せ集め集団を率いる源頼朝

 

平家の征討軍がグズグズしている間に頼朝は房総半島で再挙兵し、千葉常胤(ちばつねたね)上総広常(かずさひろつね)のような有力武士団を配下に加え武蔵(むさし)下野(しもつけ)の国境の隅田川に到達した9月末には2万騎以上に膨れ上がっていました。

 

一方で平維盛を総大将とする追討軍の進撃は遅れ続け、諸国の武者をかき集めながら駿河へと向かいますが、西国は飢饉に見舞われ食糧調達は進まず士気は低下していました。それでもようやく10月13日に4000騎で駿河国に入りますが、その直後に駿河目代橘遠茂(するがもくだい・たちばな・とおしげ)が甲斐源氏に鉢田(はちだ)の戦いで撃破されます。

 

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維盛の追討軍が潰走、景親は頼朝に降伏し斬首

戦費負担で貧乏になる鎌倉武士

 

10月18日、景親は維盛の軍勢と合流しようと1000騎を率いて出発しますが西方はすでに敵方であふれ、突破が難しいのでやむなく兵を解散し河村山に逃げ去りました。

 

討死する坂東武士(モブ)

 

頼みにしていた維盛の軍勢も富士川で4万騎の武田信義(たけだのぶよし)の軍勢と遭遇、さらに兵力が次々と脱落し、武田に願える勢力も出てきたので、夜陰に乗じて一戦も交える事なく潰走します。

 

孤立無援になった景親は10月23日についに降伏し上総広常に預けられます。助命を請う景親ですが、頼朝は許さず処刑され首は晒されました。

 

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源頼朝家がスッキリ分かる動画

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

大庭景親は清盛の命令に背かず、最後まで忠誠を尽くしました。

 

大庭景親と共に源頼朝追討の軍を率いる伊東祐親

 

もう少し維盛の征討軍が早めに駿河に到着し、大庭景親や伊東祐親、駿河目代橘遠茂の軍勢と合流できていれば、補給の問題も解消され、景親が軍を解散して山に逃げるような事態にはならなかったでしょう。

 

頼朝を破っておきながら、味方に足を引っ張られ全く報われず敗残者として斬首されるとは、可哀想な最期でした。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

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