中世の武士は、戦う前に自らの素性を大声で叫ぶ「名乗り」を行います。実際には戦国時代はそれほどではなく、それ以前の鎌倉時代のあたりで盛んにおこなわれていました。この名乗りが戦国時代になりどう変わったのか?
現代にも引き継がれている「名乗り」の歴史を追いかけながら解説します。
この記事の目次
名乗りとは何か?
名乗りは、戦が行われると武士が大声で、自らの名前、身分、家系といった素性を自ら語ることです。この意味は戦の正当性を主張するというもの。
敵だけでなく味方にも、自らが何者かを名乗ってから戦いに向かいました。そして名乗りを行っている間、敵方は戦いを仕掛けることは良しとされません。もしそれを行うと「卑怯者」とされます。
名乗りと武士の戦い方
名乗りは、古代の豪族や貴族のもとで働く兵のころでは、行われているという記録がありません。これは武士が登場した平安後期以降となります。当時は戦いの作法のようなものがあり、そこで名乗りが行われます。その手順は次のように行われました。
1.最初に軍使を交換します。
合戦の日時、場所を決定。果し合いのようなもので、両軍の軍使の安全は保障されています。
2.合戦当日、両軍が相対しします。
準備が整うと最初に宣伝合戦を行ないました。ここで「名乗り」を行うこととなり、双方の代表者が出て来ると「ヤアヤア我こそは…」という風に名乗りを始めます。名乗りにより、自らを鼓舞し敵を威嚇。さらに味方の混乱収拾の役目がありました。
3.矢合わせが行われます。
これは大きな矢尻と笛のついた鏑矢をを射ち合うもの。実はこの矢を射ると「ヒョー」と音が鳴ります。これが合戦の合図。こうして「ワーッ」というトキの声を上げて戦が始まります。
4.この後は実戦です。
当時は最初に矢戦・つまり互いに矢を打ち合うことから始まりました。やがて馬に乗った騎馬武者が敵に近付き、矢を射始めます。
5.その後は本格的な乱戦で一般的な戦い。
手柄になりそうな良い敵を見つければ、組み打ちを仕掛けていきます。こうして勝ったほうが、負けた方の首を取りました。こうして戦後に手柄を確保します。
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名乗りの例
「やあやあ、吾こそは〇〇の国の住人、○○太郎○○なり。畏くも一天万乗の君の勅命により、朝敵を征伐するためにここに参った。」こちらはショートバージョン。
これに対してさらに長いロングバージョンの場合は、自らの出自や先祖、親の活躍などを語ります。
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那須与一の名乗り
有名な名乗りを上げた人物として伝わるのは那須与一です。平安末期の武将で、源頼朝に与し、弟・義経の軍に参加しました。源平合戦の屋島の戦いでの活躍が有名です。これは、平家方の軍船に掲げられた扇を射落とすのですが、そのときに次のように名乗りました。
「南無八幡台菩薩、日光の権現、那須の湯泉大明神。願わくはあの扇の真中射させ給え。これを射損ずるならば、弓を折り、自害しなければ申し訳が立ち申さぬ。今一度那須へ帰らせたいと思し召さば、この矢、外させたもうな」
こうして与一は無事に扇を射落とします。これらの功績が認められ、戦後は頼朝から五か国に荘園を賜りました。
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義経・正成・蒙古 名乗りを無視した人たち
中世の武士の戦いで、名乗りは非常に大切なものでした。しかしこれを無視して戦う武将もいます。
義経は頼朝の弟で、源平合戦の総大将として平家を壇之浦まで追いつめて滅ぼした武将ですが、当時の武士としては「卑怯」と言えることをして勝ち続けました。一騎打ちの名乗りをするのではなく、奇襲作戦を展開し、相手を圧倒します。
有名なのが、神戸市須磨区で行われた一ノ谷の戦い。記録によれば、精兵70騎を率いた義経は、一ノ谷の断崖絶壁の上に立ち、そこから一気に坂をかけ下ります。そして谷の下で待機していた平家の陣に突入。平家軍は大混乱となり、そのまま海に逃げ出しました。
ただ勝つのが目的の戦いなので、知略を巡らせたのにすぎません。義経を一概に「卑怯者」と言えるかどうかは微妙だといえます。
- 楠木正成
鎌倉末期から南北朝にかけて活躍した楠木正成も名乗りをして戦わなかった武将です。彼の場合は大軍を引き付けてゲリラ作戦で戦うことを得意としていましたので、名乗っている場合ではありません。相手の油断をついて翻弄して勝利を収めました。
- 蒙古
鎌倉後期に、突如日本に攻めてきた蒙古軍。いわゆる元寇です。名乗りそのものは日本の武士の間で行われる戦いの方法。海外の蒙古軍に通用するはずがありません。
鎌倉武士が「やあやあ」と名乗っている間にいきなり攻撃。そのため当初は戸惑いましたが、体制を立て直した鎌倉武士の活躍で、蒙古軍を海に押し返し、そこでいわゆる神風と呼ばれた台風により元の船は沈没。難を逃れました。
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戦国時代の名乗り
武士にとって大切な「名乗り」ですが、戦国時代のころになると、そのようなことができなくなってきました。ひとつは軍勢が大きくなり、集団戦に変貌していったため、ひとりが前に出て「我こそは」と言っても相手に伝わりません。また戦国後期のころに渡来してきた鉄砲の存在も大きいです。名乗っている間に、鉄砲で撃ち殺されてしまい、名乗る余裕がありません。
こうして名乗りそのものがなくなっていきました。
それでも騎馬同士、接近戦になって相手の顔が見えたときには名乗っていたとも言われ、そのとき、相手に対して「我こそは、○○なり、腕に覚えの者よ、手合わせ願う」と言って戦ったともいわれています。そして戦いに勝った後に首を取り、それを手柄とした風習は引き続き残されました。
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名乗りの代わりに札を配った人物
戦国時代も終わり、江戸時代を迎えようとしたときに、声で「名乗る」のではなく、名前の書いた木札をばらまいた武将がいます。それは塙直之という人物。塙団右衛門ともいわれます。
酒癖が悪くなかなか士官につけず浪人生活などを行い、秀吉の時代になって、ようやくその家臣・加藤嘉明に召し抱えられます。鉄砲大将を任されましたが、関ケ原の戦いで勝手に足軽を出すなどして叱責を受けてしまいました。すると突然出奔してしまいます。
これに激怒した嘉明が「奉公構」と呼ばれる刑罰を与えました。これは他家への士官もできないという状態です。
その後大坂冬の陣では豊臣方に参加。浪人衆として夜襲を仕掛けるなど活躍します。この際に「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札を配下の者にばら撒かせました。これは名乗りではなく、名刺のような役目を果たました。一説には刑罰を与えた嘉明へのメッセージといわれています。
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江戸時代の名乗りは決闘?
江戸時代に入ると戦そのものが幕末までなかったことから名乗りそのものはほとんど行われません。個人の決闘では名乗りに近いものが行われています。例えば有名な1776年の「巌流島の決闘」で、佐々木小次郎に相対した宮本武蔵は「小次郎敗れたり!」と叫びました。そして武蔵が勝ちます。
また1694年に行われた高田馬場の決闘で、西条藩松平頼純の家臣、菅野六郎左衛門と村上庄左衛門との決闘の際には、相対した菅野が「これは珍しいところにて見参致し候」と皮肉を言うと、村上も「まことに珍しいと存じ候」と応じました。
お互い素性が分かっているので名乗りではありませんが、戦う前に声を掛け合っています。
フィクションの世界の名乗り
- 伝統芸能
戦国時代以降は実戦での名乗りは減少していきますが、フィクションの世界では、頻繁に名乗りが活用されました。歌舞伎や能楽のような伝統芸能では、かつての武将たちを演じる時に、名乗りを上げます。
実践ではないので、様式化されインパクトある名乗りにより、観客を楽しませました。
この傾向は昭和の時代に多く制作された時代劇にも引き継がれます。悪役の前に現れた主人公が、主に相手を成敗する前に自らを名乗り、そして戦います。
水戸黄門の印籠や遠山の金さんの桜吹雪の入れ墨を見せる行為も、名乗りの一種と考えてよいでしょう。
- テレビの特撮
武士が行う名乗りは、武士以外の世界でも使われるようになりました。有名なのは特撮シリーズ。仮面ライダーやゴレンジャーと言った戦隊ものでは、最初に大見えを切って「名乗り」ます。また子供向けのアニメシリーズの多くは、変身後に自らが何者かを「名乗り」ます。
名乗っている間に敵が攻撃をすることなく、それを聞くことも決まっていて、不意打ちをかけることは基本的にありません。これは日本人の美意識にのっとったものとされ、今でもフィクションの世界では名乗りは重要な役目を果たしています。
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戦国時代ライターSoyokazeの独り言
名乗りは、武士の登場とともに存在し、戦いの作法に様なものでしたが、それを行わずに戦い、勝利を収めた武将も普通にいました。戦国時代の集団戦ではあまり名乗りはできなくなりましたが、武士の戦いの作法的な伝統として、主にフィクションの世界で生き残りました。
そして本来武士とは無関係な特撮やアニメといった場面でも名乗りは重視され、それは日本人の美意識としてこれからも受け継がれていくでしょう。
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