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伊東祐親とはどんな人?時代が読めなかった義時の冷酷で偉大な祖父【鎌倉殿の13人】

06/02/2022


 

平家の横暴に辟易している北条義時

 

今日の一言「じっさまにはじっさまの戦う理由があるんじゃ!」

 

忙しい方にざっくり解答02 kawausoさん

 

みなさん、こんばんはカワウソ編集長です。

 

伊東祐親 鎌倉

 

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」その序盤における頼朝最大の敵が伊東祐親(いとうのすけちか)です。

 

源頼朝の監視役を任された伊東祐親

 

祐親は平治の乱以後は平家に接近し、清盛の信用を得る事で伊豆に勢力を伸ばしましたが、祐親が京都に滞在していた間に、流人として監視していた源頼朝(みなもとのよりとも)が娘の八重姫(やえひめ)と関係し子を(もう)けた事で清盛(きよもり)に睨まれる事を恐れ、孫の鶴丸(せんつるまる)を川で溺死させ、頼朝も亡き者にしようと兵を出し、頼朝を(かくま)った娘婿(むすめむこ)北条時政(ほうじょうときまさ)とも一触即発の状態になります。今回は伊豆の非情なじっさま、伊東祐親について解説してみましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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伊豆の豪族工藤氏の六代目として誕生

鎌倉仏像(仏教)

 

伊東祐親は伊豆国伊東に勢力を持つ豪族、工藤氏(くどうし)の六代目として誕生しました。

 

伊豆へ島送りの刑となる源頼朝

 

東国における親平家(しんへいけ)の豪族として平清盛から信頼を受け、平治元年(1159年)の平治(へいじ)の乱に敗れて伊豆に流された源頼朝の監視を任されます。

 

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清盛の怒りを恐れ、千鶴丸を溺死させ頼朝の命も狙う

公家としての栄華も極めた平清盛

 

しかし祐親が大番役(おおばんやく)のために京都に上洛している間に娘の八重姫が頼朝と恋仲になり千鶴丸を儲けてしまいました。

 

源頼朝絶対殺すマン伊東祐親

 

祐親はこれを知って怒ると同時に、清盛に疑われる事を恐れ、千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝まで殺そうとしました。

 

北条時政と一触即発になる伊東祐親

 

祐親の次男で頼朝の乳母比企尼(ひきのあま)の三女を妻にしていた伊東祐清(いとうのすけきよ)が頼朝に事実を打ち明け、頼朝は夜、馬に乗り熱海の伊豆山神社に逃げ込み、その後北条時政に匿われて事なきを得ました。北条時政は祐親の娘を妻にしていたので、祐親にとって時政の行為は裏切りとなり、以後、両者の関係は修復不可能になりました。

 

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はじめての鎌倉時代

 

本当は八重姫から政子に乗り換えた頼朝に嫉妬しただけ?

家を飛び出し源頼朝と交際を続ける北条政子

 

ただ、ここには異説があり、頼朝が政子と関係を持ったのは伊東の屋敷から逃げて北条に匿われた後ではなく、祐親が京都から戻る直前には政子と関係を持っていたとする説もあります。

 

執念深く根に持つ性格の伊東祐親

 

この場合、祐親は娘が頼朝と関係を持つのは許していたものの、頼朝が八重姫を裏切り、伊東から北条に乗り換えた事を知って激怒し、一種の後妻討(うわなりう)ちの感覚で孫の千鶴丸を殺したというわけです。この場合、祐親は清盛を恐れていたわけではない事になります。

 

女好きだった源頼朝

 

頼朝は英雄色を好むの典型で、嫉妬深い政子に怯えながら複数の女性と関係しているので、祐親のうわなりうちも無理もない話と言えるかも知れません。

 

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WEB版 はじめての三国志

 

 

祐親は執念深く根に持つ性格

騒いでいる公家

 

祐親の祖父は工藤祐隆(くどうのすけたか)と言い、家督を継がせた嫡男の伊東祐家(いとうのすけいえ)が早死にすると、後妻の連れ子である継娘(ままこ)が生んだ子である伊東祐継(いとうのすけつぐ)を養子とし嫡男として本領の伊東荘を与え、同じく養子にした祐親には次男として河津荘(かわづそう)を与えました。

 

こうして祐親は河津祐親になりますが、嫡孫として約束された惣領の地位を祖父の連れ子に奪われた事を恨んでおり、伊東祐継が死んで、その子、伊東祐経(いとうのすけつね)が伊東荘を相続すると、後見人として親しく振舞いながら裏では荘園を取り返す機会を窺い、祐経が自分と共に上京している隙をついて伊東荘を奪い取り、さらに祐経に嫁がせた自分の娘、万劫御前(まんこうごぜん)と祐経を離縁させました。

 

 

驚いた祐経は京都で訴訟を起こして伊東荘を返してくれるように平家に訴えますが、清盛と親しい祐親は、全て裏から手をまわして訴訟を握りつぶしてしまいます。

 

こうして分家の河津から伊東に復した祐親ですが、領地と妻を奪われた伊東祐経は、この事を恨み、安元2年(1176年)郎党に銘じて狩猟していた祐親を襲撃。刺客の放った矢は祐親を外れたものの、共にいた河津祐泰(かわづのすけやす)に命中し殺してしまいます。

 

祐泰の子はこの事を激しく恨み、後に鎌倉幕府の御家人として出世した伊東改め工藤祐経(くどうのすけつね)を富士の巻き狩りの途中で襲い暗殺する曽我兄弟(そがきょうだい)の仇討ち事件に繋がりました。

 

祐親はこのように恨みを内に秘め何年も遺恨を忘れない性格で、その事が多くの悲劇を生み出しました。異説では頼朝が千鶴丸を殺した祐親を恨み祐経に暗殺を(そそのか)したともいわれています。ドラマに負けず劣らずの困ったじっさまですね。

 

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47都道府県戦国時代

 

 

時代を読めず頼朝に捕らえられる

大庭景親と共に源頼朝追討の軍を率いる伊東祐親

 

北条氏との関係が悪化し、平家との繋がりも強い伊東祐親は、治承4年(1180年)8月に頼朝が挙兵すると、当然、頼朝討伐の先鋒として大庭景親(おおばのかげちか)等と共に頼朝追討の軍を率いる事になりました。

 

伊東祐親の軍勢にも追われる源頼朝

 

同年の8月23日、祐親は石橋山の戦いで頼朝軍を撃破します。

 

 

しかし、頼朝の捜索に当たった大庭景親の軍勢には頼朝シンパの梶原景時(かじわらのかげとき)飯田家義(いいだのいえよし)などがいて、頼朝をかくまったので頼朝は捜索の手を逃れ、土肥実平(どひのさねひら)と海を渡って安房に逃れ、千葉常胤(ちばのつねたね)上総広常(かずさのひろつね)の支持を取り付けて勢力を拡大。

 

 

10月には鎌倉に入り、平家につく豪族を次々に征伐して領地を取り上げ、配下の御家人に分配して味方を増やしていきます。

 

最強の寄せ集め集団を率いる源頼朝

 

同時期には甲斐源氏(かいげんじ)武田信義(たけだのぶよし)や、信濃(しなの)源義仲(みなもとのよしなか)も挙兵して、平家の勢力を駆逐しており、祐親は大庭景親ととも追われる立場となり、同年10月20日の富士川の戦いの後、頼朝に捕らえられ、三浦義澄の家に預かりの身の上となりました。

 

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助命を拒否し自殺

源頼朝に捕らえられた伊東祐親

 

同時期に捕まった景親はすぐに殺されていますが、祐親が殺されていないのは、娘を北条時政や三浦義澄(みうらのよしずみ)土肥遠平(どいのとおひら)に嫁がせていて、頼朝への助命嘆願があったせいかも知れません。

 

自害した伊東祐親

 

その後、頼朝の正室、北条政子が懐妊したタイミングを受けて、三浦義澄が頼朝に祐親の助命を願い出て受理されますが、祐親はその事を恥じ自殺してしまったそうです。

 

吾妻鏡の表紙 表紙

 

吾妻鏡によると、祐親の次男祐清に対し頼朝は、かつて命の危機を救ってくれた恩義に報いるとして恩賞を与えようとしますが、祐清は「父が頼朝を敵としているのに、子として恩賞を受ける事は出来ない」として拒否し、京都に上って平氏として戦い、北陸道で戦死したそうです。

 

ダークサイドに堕ちた源頼朝

 

また、別の話では、祐親が死んだ後、自分も殺して欲しいと頼朝に頼み、願いを聞いた頼朝が嫌々誅殺(ちゅうさつ)したという話も残っています。

 

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ほのぼの日本史

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

伊東祐親には娘が多くいたようで、政略結婚により、三浦氏や北条氏に嫁ぎ、北条義時や三浦義村のような鎌倉幕府の有力御家人が祐親の孫になっています。義時に至っては北条得宗家(ほうじょうとくそうけ)の開祖で祐親は執権北条氏一門のじっさまという事になります。

 

八重姫が源頼朝と付き合いキレる伊東祐親

 

そこまでの栄誉ある地位にいながら、ついに平家を見限る事が出来ず、かつて流人として監視していた頼朝に捕らえられ恥辱から死を選ぶとは運命とは皮肉なものですね。

 

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