NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、その見どころの1つには西国育ちの頼朝と坂東武者のかみ合わない価値観の激突があるかと思います。
西国の常識が通用しないワイルドでいい加減な坂東武者ですが、一体どうしてあんな性格になってしまうのでしょう。
今回は坂東武者のトリセツと題して迫ってみようと思います。
この記事の目次
坂東武者のトリセツは吾妻鏡にあり
坂東武者のトリセツと言っても、800年も前の坂東武者の性格なんか分かるの?と言われるかと思いますが、それが分かるのです。
頼朝は伊豆に流されて20年、ただ流人生活を送っていただけでなく、挙兵した際に坂東武者を上手く扱えるように、その性格についてきちんと把握に努めていました。その集大成が鎌倉幕府の歴史書吾妻鏡には残されているのです。
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自分勝手で命令に従わない坂東武者
坂東武者が精強を謳われながら西国の武士に及ばなかった大きな理由が自分勝手で組織をつくらないという事でした。元々、坂東武者は開発領主であり、一族で土地を耕し狭い範囲で婚姻を繰り返していました。大軍と言っても数百騎にしかなりません。
さらに、その数百騎がバラバラに自分の手柄のみを追うのでチームワークも何もあったものではなく、主君を中心に統制が取れた西国武士の下風に立つ事になりました。
大河ドラマでも和田義盛が三浦義村の制止も聴かず、畠山重忠の軍勢に矢を射かけてしまい、小競り合いに発展した描写がありました。
頼朝が何よりも重視したのは、坂東武者に規律を教え込み自分に絶対服従するように意識改革をする事だったのです。
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目先の事しか考えない坂東武者
坂東武者は広大な関東平野で限られた一族とのみ交流していたので大局観がありません。土地を守って子々孫々が繁栄するように頑張る以外にこれという目標の立てようもなく、悪く言えば目先の事しか考えない人が多いのです。
頼朝が富士川の戦いで敗れて敗走した平維盛軍を追撃して京都を目指すと命令した時も、上総広常、千葉常胤、三浦義澄のような有力豪族は関東に常陸の佐竹氏のような親平家勢力があるから、それを掃討するのが先だと主張して聞きませんでした。
上総広常に至っては、「平家を滅ぼすために上洛なんかしないで関東は関東の人間が治めるでいいじゃねえか」と主張していて、この方針の違いが原因で上総広常は後に誅殺されたと言われています。
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手柄をよく見ていないと不満を持つ
坂東武者のトリセツとして重要な部分に、手柄を良く見ていないと不満を持つがあります。自分勝手な坂東武者は家の繁栄が第一なので、自分の手柄を過大に評価する傾向がありそれに沿う恩賞が貰えないとすぐに不満を抱きました。
不平屋の筆頭はお騒がせな脳筋武士、和田義盛で安房に逃げ延びて、まだ危機が去ったわけでもない頼朝に対して、「いつか侍大将にしてくれ」と図々しいお願いをして周囲を呆れさせましたが、頼朝は約束を覚えていて鎌倉に入城するとすぐに義盛を侍所別当に任命しています。
また、頼朝は待遇にうるさい坂東武者の為、鎌倉の家屋敷の配置に相当な神経を使い、その甲斐あって坂東武者たちは自分達の評価が理に適っていると満足し、以後全体で頼朝を支えて行こうと誓ったと吾妻鏡にあります。
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すぐに報復しようとする坂東武者
坂東武者は自力で荘園を守っているので「なめられたら負け」の精神が強くあります。鎌倉殿の13人の第八話「いざ鎌倉」では三浦氏の居城、衣笠城を落して長老、三浦義明を死に追いやった畠山重忠や江戸重長、河越重頼が降伏してきます。
長老を殺された三浦氏は、入ってきた3人にガンを飛ばしたらしいですが、それ以上の事は何もせずにこの場はガマンしました。
これは、前もって頼朝が三浦一族に「大豪族の秩父氏を敵にしては平家を追討するのが難しくなるから恨みを捨てよ」と説得したからと言われています。実際に遺恨は残りつづけ後の畠山重忠の乱まで尾を引きますが、少なくとも平家を滅ぼすまでは三浦氏と畠山氏が対決する事はありませんでした。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は坂東武者のトリセツとして色々解説してみました。頼朝が名実共に坂東武者の主君として君臨するのは鎌倉に入り、その後、論功行賞を経て、御所を中心に武家屋敷が整備されて後の事であり、それまではいつ見限られるか分からない不安定な状態でした。
それだけに頼朝は坂東武者をよく見ていて、媚びず、かつ独断になり過ぎないように気を使っていたのだと考えられます。
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