NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」個性豊かなキャラクターが活躍する中でヒゲモジャ脳筋のトラブルメーカーとして異彩を放っているのが和田義盛です。
短気で喧嘩っ早い性格である一方、戦場で小鳥を拾ってくるなど純粋な一面を持つ和田義盛は、今後、どのようにドラマで活躍するのでしょうか?
この記事の目次
三浦一族の支流として誕生
和田義盛は久安3年(1147年)三浦義明の子、杉本義宗の子として誕生しました。和田氏は坂東八平氏のひとつ三浦一族の支流で相模国三浦郡和田郷、または安房国和田御厨に所領があったことから和田を苗字としています。
義盛から見ると、三浦義澄や三浦義村は本家筋の人間という事になります。治承4年(1180年)8月22日、三浦一族は伊豆国で平家打倒の挙兵をした源頼朝に味方する事を決め三浦義明の子、三浦義澄以下500余りの手勢を率いて本拠の三浦半島を出撃しました。
和田義盛も弟の小次郎義茂も従軍しますが、折しも台風の影響による酒匂川の増水で川を渡れずそのうちに頼朝軍が石橋山で大庭景親に撃破された事を知り、頼朝の安否も不明なので三浦半島に引き返す事になります。
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実は兄弟でやらかした和田義盛
帰る途中の8月24日、三浦の軍勢は鎌倉の由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇し合戦になります。
源平盛衰記によれば手柄に逸る義盛が畠山の陣の前で名乗りを挙げて挑発し騒動になりますが、三浦氏と畠山の秩父氏では親戚縁者も多く身内同士で殺し合いはつまらぬと一時和解しました。
ところが事情を知らない義盛の弟、義茂が畠山の陣に突入して合戦となり、双方に死傷者を出して痛み分けになります。ドラマでは義盛1人の勘違いでしたが、実際は兄弟二人でやらかしていたかも知れませんね。
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畠山重忠との因縁
三浦一族は本拠地の衣笠城に戻りますが、そこに畠山重忠を中心とした平家連合数千が攻撃を仕掛けます。
義盛は西の木戸口を守りますが、疲労の色は濃く、一族は城を捨て房総に逃れる事を決意しました。しかし、一族の長老である三浦義明は退却を拒否し「生きて源氏の再興を見られただけでも満足である」として城に残り奮戦して討死にしました。
義明の首を獲ったのは畠山重忠とも言われ、以後、三浦氏と畠山重忠の秩父氏は水面下で憎悪し合うようになります。それは、畠山重忠の乱で畠山一族が北条時政に滅ぼされる時まで継続するのです。
その後、義盛は海上で頼朝の舅、北条時政などと合流し、安房平北郡猟島で頼朝を迎えました。平家物語によると、この時義盛は「父が死に子孫が死んでも頼朝公のお姿を見ればこれに過ぎる喜びはないどうか本懐を遂げて天下をお取りください。そしてその暁には私を侍所の別当に任じて頂きたい」と進言します。
侍所別当とは、諸国の侍を束ねる長官で、平家では上総介だった伊藤忠清が坂東八カ国の侍所別当に任じられていました。義盛はそれを見て羨ましく思い、いつか自分もそうなりたいと八幡大菩薩にお願いしていたそうです。
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侍所別当に就任
義盛は、房総で再起を図る頼朝の手足となり大豪族上総広常の説得に向かい、ようやく2万騎の上総勢を頼朝の味方につける事に成功。さらに富士川の戦いで平家が敗走した後は、関東の地盤固めで常陸国の佐竹氏を討ち、上総広常と共に佐竹秀儀を生け捕りにします。
11月17日、義盛は堂々と鎌倉に凱旋、頼朝は義盛を望みの通り侍所別当に任命しました。義盛は頼朝に仕えるすべての御家人の先頭に躍り出ます。こうしてみると義盛は、合戦においては無双に強かったのかも知れません。
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源範頼の軍奉行として平家追討軍に参加
関東を固めた頼朝は鎌倉に駐屯し、源範頼と源義経の弟2人を自分の代理として平家追討に向かわせます。しかし、義盛の名前は源義仲との戦いや一ノ谷の戦いでは出て来ず、その間は鎌倉で行動していた模様です。
元暦元年(1184年)8月、源範頼が平家追討のために1000騎余りを率いて鎌倉から出発、この時、義盛は軍奉行として従軍しました。
一方で義経のほうには梶原景時が軍奉行として付いています。梶原景時は侍所所司(次官)で義盛が上司でした。
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兵糧不足に苦しみ鎌倉に帰ろうとする義盛
範頼の目的は山陽道を進軍して九州に上陸して平家を包囲、退路を遮断する戦略です。
しかし、遠征軍は養和の大飢饉の影響による慢性的な食糧不足に悩まされ、さらには瀬戸内海を平家に抑えられ船もなく戦いは長期化し坂東御家人には厭戦気分が蔓延し、鎌倉に帰ろうという意見が日に日に強くなりました。
源範頼は慎重な性格で、戦の事は大小となく軍奉行の義盛に相談していましたが、その義盛さえ鎌倉に帰ろうとしていると範頼の鎌倉への手紙には出ています。
遠征軍は、それでもなんとか船を調達、義盛は北条義時や足利義廉と九州に上陸して豊後葦屋浦で平家軍を撃破し平家の背後を遮断しました。この勝利は重要で九州に渡れなくなった平家では動揺が走って士気が低下し、義経軍に撃破される事に繋がります。
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矢の飛ばし合いでムキになるカワイイ義盛
壇ノ浦での義盛は生来の目立ちたがり精神を発揮し、馬上渚から目印をつけた遠矢を射かけて300m以上も飛ばし「平家のひょろひょろ武者に、これが出来る者がいるか」と挑発しました。
平知盛は慌てず、平家の強弓の使い手、仁井親清を呼んで矢を飛ばさせると矢は義盛の馬の近くまで飛びます。
「あさましや、井の中の蛙、貴様程度の強弓の使い手はいくらもあるわ」平家一門が義盛を嘲笑すると怒った義盛は船に飛び乗り、平家の武者を散々に蹴散らしたそうです。この頃、義盛は38歳になっていましたが、相変わらず子供のような部分がありました。
平家滅亡に功績を挙げた義盛は奥州征伐にも参加し畠山重忠と手柄を争う活躍を見せ奥州藤原氏を滅亡に追い込みます。
建久元年(1190年)9月、源頼朝は天下を平定して以来、初の上洛をし右近衛大将に任命されます。この時の随員の7名に義盛は選ばれ、さらに朝廷から頼朝に与えられた官途推挙10人枠に義盛も入り左衛門尉に昇進しました。
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侍所別当の地位を奪われ北条氏に接近
しかし、この頃から将軍頼朝の態度に変化が生じます。
それまで重用していた北条氏のような坂東武者の勢力と距離を置き、2代将軍頼家の正室には乳母の比企尼の甥である比企能員の娘を当てて北条氏と対峙させ、また侍所別当の地位も和田義盛から梶原景時に交代させました。
吾妻鏡では景時が奸計を巡らし「一日だけ長官と次官を代わってくれ」と義盛に持ちかけて許されると、そのまま居座ったとされますが、これだけの重職を貸し借りできるとは思えず、頼朝が治世の侍所別当は事務処理能力に長けた景時が適任と考えたというのが真実に近いでしょう。
侍所別当の地位に執着する義盛は景時を恨み、同時に外戚として日陰に追いやられていく北条氏に接近していきました。
ところが将軍権力を強化しようとした頼朝は建久10年(1199年)正月に落馬が元で急死、二代将軍頼家が即位します。頼家は万事を自分の判断で取り仕切ろうとし、梶原景時を側近として将軍専制を開始、反発した御家人は結託し、頼家に十三人の合議制を認めさせ義盛も13人の中に入ります。
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宿敵、梶原景時を葬る
建久10年、10月、その梶原景時が失言を理由に重臣の結城朝光を排除しようとします。これを知った御家人たちは激怒し三浦義村を取りまとめ役に66人の有力御家人の景時弾劾状を作成し大江広元に提出しました。
義盛も署名していましたが、広元は御家人同士の抗争を恐れて弾劾状を頼家に見せません。
怒った義盛は「あんたは関東のトラブルを公正に裁いて長年働いてきたはずだ。それを景時が上様のお気に入りだから見て見ぬふりをし御家人の鬱憤を無かった事にするのか?それは法に違えるのではないか?」と糾弾します。
観念した広元は弾劾状を頼家に見せ、大半の御家人が敵に回った事を知った景時は失脚し領地に引き籠りました。その後景時は京で上皇に仕えると言い、関東を出ますが途中で御家人勢力とトラブルになり一族が滅ぼされます。こうして義盛は侍所別当の地位を取り返す事に成功しました。
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将軍頼家を裏切り北条氏に味方する
さらに建仁3年(1203年)将軍頼家が病に倒れ危篤になり、北条氏と比企氏で抗争が発生し、比企能員は北条時政に謀反の疑いがありとして謀殺されます。
尼御台北条政子は、能員だけではなく、謀反人比企一族を全て滅ぼすように御家人に命じ、義盛も侍所別当として従軍し比企氏を滅ぼしました。
しかし、助かるまいと思われていた頼家は奇跡的に回復、正室と息子を時政に殺された事を知ると激怒。義盛と乳人夫の仁田忠常に北条氏討伐を命じる御教書を書き届けさせます。
義盛は考えた上で時政に御教書を届け、全てを知った時政は将軍頼家を捕らえて将軍職を取り上げ伊豆の修善寺に流罪にし暗殺。もう1人の仁田忠常も混乱の中で北条氏に滅ぼされました。こうして、3代将軍には政子の次男である実朝が就任し、時政は初代執権に就任します。
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長年の仇敵 畠山重忠を討つ
元久2年(1205年)には武蔵の大豪族、畠山重忠が北条時政の陰謀により謀反の疑いをかけられ挙兵に追い込まれます。
義盛は祖父の三浦義明が重忠に殺された事から内心恨んでおり、三浦義村と共に大将軍として出陣し、重忠を滅ぼす事に成功。
しかし、重忠は坂東御家人の尊敬を得ており、強引に重忠を排除した北条時政と正室牧の方は御家人の支持を失い、子の義時と政子により伊豆に隠居させられ、二代執権には義時が就任します。
ここまで脳筋らしからぬ判断力で難局を乗り切った義盛ですが、北条氏に抵抗できる御家人は、自分しかいなくなった事には気づいていませんでした。行政権を握り敵が多い義時は、当然、軍事権である侍所別当の地位を兼任しないと安心できなくなり、次は和田義盛を排除しようと動き出すのです。
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北条政子に意地悪される義盛
承元3年(1209年)義盛は上総国司の職を内々に要求しました。3代将軍実朝は、これを聞き入れようと政子と相談しますが政子は頼朝の時代から御家人が受領になる事は停止されていると拒否します。
しかし、実際には御家人が受領になれないのは頼朝と後白河院対立の頃の話であり、実朝の時代には平賀朝雅や八田知家のように受領になる御家人も出ていました。
受領は徴税の請負人で、納税額を収めた残りを自分の収入に出来たので極めて実入りがよい仕事で、平清盛や源義朝も受領を歴任して富を蓄えた背景がありました。
政子は義盛の勢力を警戒したか、北条氏になびかない義盛への嫌がらせで許可を出さなかったようです。
義盛はなおも正式に大江広元を通じて嘆願状を出し、「これまでの拙者の功績をお考えになりどうか国司にして下さい。一生のお願いです!」と食い下がりますが結局、義盛の嘆願状は差し戻され国司にはなれませんでした。
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義時の挑発を我慢できず挙兵
建暦3年(1213年)2月義盛が鎌倉から上総伊北荘に下っている最中に、泉親衡が頼家の遺児を擁立して北条氏を打倒する陰謀計画が明るみに出ます。
そして、関係者の自白から義盛の子、義直、義重、甥の胤長の関与が明らかになりました。
義盛は鎌倉に戻ると実朝に子息と甥の赦免を願い出ます。しかし、大江広元は、息子は許すが甥の胤長は謀反計画の張本人として赦免を許しません。義盛はさらに和田一族90名を引き連れて御所を訪れ、重ねて赦免を願い出ますが許可はおりません。
北条義時は義盛を挑発しようと、あえてここで胤長を縄で縛って引き立て義盛に大いに恥辱を与えます。胤長は死刑を免れたものの陸奥国へ流罪となり屋敷は没収となりました。
義盛は罪人の屋敷は一族に下げ渡される習わしとして屋敷の拝領を求め許可されますが、義時は直後に屋敷を乱の平定に功績があった御家人に下げ渡します。繰り返される侮辱に義盛の堪忍袋の緒が切れました。
義盛は横山党や反北条派を誘い挙兵を決意、将軍実朝は不穏な空気を察して義盛にトラブルを起こさないように使者を出します。しかし義盛は「上様に恨みはありません、相模守義時の傍若無人さが腹に据えかね問い質そうと思っているのみ」と答えました。
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我が子の死に号泣し首を討たれる
義盛が挙兵でもっとも頼りにしたのは本家筋の三浦義村でした。義村は謀反に賛成し起請文まで書いていましたが、裏では弟の胤義と相談し義盛を裏切り義時に謀反を通報します。
建暦3年(1213年)5月2日、義盛は一族と挙兵し鎌倉で義時の軍勢と激突、武勇に名高い和田一族は奮闘しますが、すでに謀反を知って事前に準備をしていた義時の下には、味方が続々と到着します。
披露した和田一族は鎌倉市街地から由比ヶ浜に後退、ここに援軍の横山党が到着しさらに味方の増援もあり和田勢は大軍になりました。義時と大江広元は将軍実朝の名前で御教書を発して謀反人義盛を討てと号令します。
このルール破りで北条氏と和田氏の私闘だった戦いは官軍対賊軍の戦いになり、義時には大勢の御家人が加勢。万事休止となった和田一族は次々と討ち取られ、義盛の愛息、義直も討死します。
67歳になった義盛は最愛の息子の死に戦意を喪失、人目をはばからず声を挙げて泣き江戸義範の郎党により首を取られました。
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日本史ライターkawausoの独り言
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、トラブルメーカーながら裏表のない純粋な性格でヒゲモジャのカワイイキャラとして認知されている義盛。史実の義盛もドラマに負けず劣らず脳筋ながら真っすぐな人物であるようです。
しかし、単純でまっすぐな人ゆえに誇り高く北条義時によりプライドを傷つけられた事を我慢できず一族を崩壊に追いやってしまう、義盛の長所は短所でもあったのです。
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