NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人には、多くの坂東武者が登場します。坂東武者はおおむね性格が単純で一本気、目先の利益にガツガツしますが一方で驚くほどに正直で受けた恩義をいつまでも忘れない義理難さもあります。
岡崎義実はそんな坂東武者を絵に描いたような古武士でした。
この記事の目次
坂東八平氏、三浦悪四郎として誕生
岡崎義実は坂東八平氏の1つで相模に地盤を張る三浦家の出身です。三浦氏の棟梁である三浦義明の弟で相模国大住郡岡崎を領し岡崎氏を名乗りました。通称は三浦悪四郎で若い頃は勇猛で猛々しい性格であった事が窺えます。
相模の三浦氏は前九年・後三年の役で河内源氏の源頼義に従って以来、源氏の家人でした。岡崎義実も忠義心厚く、平治の乱で源義朝が敗死した後、鎌倉の義朝館跡の亀谷に菩提を弔う祠を建立しています。これらの経緯を考えると義実は荒々しいだけではなく忠義に厚い人だったようです。
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嫡男 与一義忠と頼朝の挙兵に参加
治承4年(1180年)8月9日、源義朝の遺児頼朝が伊豆国で挙兵を決めます。岡崎義実は河内源氏に対する恩義を忘れず嫡男の佐奈田義忠とともに参加しました。
頼朝は岡崎義実を自分の部屋に呼び「誰にも言わないで欲しいのだが、私が頼りにしているのはお主だけだ」と言葉をかけ単純で素朴な性格の義実は感激し勇敢に戦う事を誓ったそうです。
ただし、これは頼朝の常套手段であり、頼朝の部屋に呼ばれたのは義実だけではなく、工藤茂光、土肥実平、宇佐美助茂、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉も同じ事を言われていました。
しかし、義実と義忠父子が頼朝に特に頼みとされたのは事実で、挙兵前にあらかじめ土肥実平と共に北条館に参じるように伝えています。
8月17日に頼朝は挙兵して伊豆目代・山木兼隆の館を襲撃してこれを殺害。次に頼朝は300余騎を率いて相模国の土肥郷へ進出し、8月23日には石橋山で平家方の大庭景親率いる3000余騎と相対します。
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嫡男、佐奈田与一義忠の奮戦
岡崎義実は武勇の誉れ高い嫡男の与一義忠を頼朝に推挙。頼朝は「大庭景親と俣野景久の2人と組打ちして源氏の高名を立てよ」と先陣を命じます。
しかし相手は10倍の3000である事から義忠は討死を覚悟し、57歳になる老いた郎党の文三家安に母と妻子の後を頼みますが、文三は「義忠様が2歳の頃から親代わりにお育てしたのだから、共に討死します」と言って聞かず義忠もそれを許しました。
義忠は豪華絢爛な鎧を着て白葦毛の名馬に跨ったので頼朝は目立つから着替えた方がいいと助言します。すでに死を覚悟した義忠は「弓矢を取る武士の晴れ舞台です。いかに華美でも過ぎる事はございません」と助言を一蹴し15騎を率いて名乗りを挙げ、10倍の大庭軍に突撃しました。
大庭軍は好敵手であるとして大庭景親、俣野景久、長尾新五、新六など73騎が迎え撃ちます。
義忠は文三に「わしは狙いを大将首の大庭景親や俣野景久に絞る!組み伏せたらただちに加勢せよ」と命じました。
ところがすでに外は暗くなり、おまけに暴風雨で敵も味方も分からない有様。義忠は襲い掛かった敵を組み伏せて首を獲りますが、それは岡部弥次郎のものだったのでガッカリし首を谷に捨てています。
敵味方入り乱れての乱戦の末、義忠は狙いの俣野景久を見つけます。両者は馬上で組打ち、落馬して地面を転げまわり泥だらけの格闘の末に義忠が景久を組み伏せました。
敵わないと思った俣野景久は大声を上げて助けを呼ぶと、そこに郎党の長尾定景が駆け付けますが、辺りは真っ暗のためにどちらが上でどちらが下か、当人たち以外には分かりません。
郎党の定景がたまりかねて「上が敵ぞ?下が敵ぞ?」と問います。義忠は首を獲られてはたまらないと機転を利かせ「上が景久で下が義忠」と嘘を言い、驚いた景久は「上が義忠で下が景久じゃ間違うな!」と叫びます。
迷った定景は鎧の手触りで上が義忠と目星をつけると、義忠はもはやこれまでと定景を蹴り飛ばし、短刀を抜いて景久の首を掻こうとしますが不覚にも短刀を鞘ごと抜いてしまい刺さりません。
慌てて鞘を抜こうとするも、先ほど、岡部弥次郎を斬った時の血糊で手が滑り、もたもたしている間に背後から長尾定景が飛び掛かり組み伏せられ首を獲られました。郎党の文三も主人亡き後、奮戦し稲毛重成の手勢に討たれます。
敗れた頼朝ですが、佐奈田義忠と郎党又三の奮戦はいつまでも記憶していて、平家を倒した後に菩提寺を立てて奮戦に報いたと言われます。
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息子の仇を許した義実
石橋山で敗れた頼朝の軍勢はバラバラに落ち延びます。息子の義忠を失った義実は北条時政や三浦義澄と共に船で安房に渡り、そこで後から落ち延びた土肥実平や頼朝と再会しました。
敗れた頼朝ですが、房総の大豪族、千葉常胤や上総広常を味方に引き込む事に成功。ここから数万の勢力になり鎌倉に入って幕府を開きました。
さて、義実の嫡男、佐奈田義忠の首を獲った長尾定景はまもなく頼朝に降伏し岡崎義実の家に預けられます。普通なら嫡男の仇として殺さないまでもヒドイ扱いをしそうですが、慈悲深く勝敗は兵家の常と弁えた義実は殺す事無く虜囚として抑留するに留めます。
そればかりか毎日、法華経を上げて死んでいった者達の供養をする定景に感銘を受け「読経を聞くうちに恨みは晴れました。定景殿を斬れば、きっと冥途で息子が災難を蒙りましょうから、もう自由の身にしてやりとう御座います」と頼朝に嘆願。
自身も仏教に傾倒していた頼朝も義実の心掛けを褒め定景を放免としました。
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頼朝を訪ねてきた義経を門前払い
慈悲深く心温まるエピソードがある義実ですが、そこは坂東武者だけありウッカリ逸話や子供じみた喧嘩の逸話もあります。
治承4年(1180年)10月20日の富士川の戦いで平維盛の軍を戦わずに敗走させた頼朝と甲斐の武田信義の軍勢ですが、合戦の夜に1人の青年が黄瀬川に本陣を敷いた頼朝を訪ねてきます。
この時、本陣を守っていたのは義実でしたが青年を怪しんで頼朝に取り次ぎません。
「あ~最近多いんだ。お主のように鎌倉殿の兄弟ですと押しかけてくる連中がな…大体、鎌倉殿はお忙しいのだ。お主のような素性も知れぬ若僧にはお会いにならん!さっさと帰れ!この薄汚ねェシンデレラが」
こうして、何としても頼朝に会いたいと粘る青年と義実で、ちょっとした騒動になります。この時は、仲裁の名人である土肥実平が騒ぎを聞きつけ義実を取りなし頼朝に青年を面会させました。
頼朝は面会に来た青年が異母弟九郎義経だと気づき、平治の乱以来の再会に兄弟は涙し、義実も思わずもらい泣きしたそうですが、あんたさっきまで義経を追い払おうとしていたよね?と突っ込まずにはいられません。
もし、頼朝が現れず義経が諦めて去っていたら軍神義経の平家討伐の快進撃はどうなったでしょうか?
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上総広常と水干を巡り大喧嘩
頼朝に従軍した頃には、70歳に近い高齢者だった義実ですが、若い頃に悪四郎と呼ばれた乱暴者だけあり、そういうヤンキー気質は生涯持っていたようです。
ある時、本家の三浦義澄の屋敷で頼朝を招いて盛大な酒宴がありました。頼朝大好きっ子の義実は酒が回っていい気分になり、頼朝が身に着けている水干というフォーマルウェアを褒美に下さいと言い出します。
頼朝は快く了解し、その場で脱いで義実に与えると義実もその場で着こんで上機嫌です。ところがこれを見て嫉妬したのが、もう1人の頼朝大好きっ子上総広常でした。
「武衛のイケてる水干を耄碌ジジイの悪四郎にやるのはドブに捨てるようなもんじゃねえか?
水干は、この上総広常にこそ相応しい、そうだろう武衛共?」と面と向かって義実を罵倒します。
これを聞いて誇り高い義実も激怒し、つかみ合いの喧嘩になりそうになります。頼朝はどちらの肩も持てずに黙り込みますが、三浦一族の佐原義連が仲裁に入りました。信心深く慈悲にあふれた義実ですが、こういう子供のような一面もあったのです。
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晩年は貧乏と病に苦しんだ義実
老人だった義実ですが、奥州合戦にも従軍。建久4年(1193年)には、老衰を理由に大庭景義と共に出家します。しかし、その後も義実は生き続け、なんと30歳以上も若い頼朝の死後もまだ生きていました。
ところが80歳を過ぎてから義実は病に苦しみ所領も僅かしかなく、頼みにできる人間もなく、子孫の事が案じられてならないと正治2年(1200年)3月の寒い日に杖を突きながら尼将軍、北条政子の下に顔を出し泣いて窮状を訴えました。
義実の窮乏ぶりに政子は同情し、石橋山の戦いで義実の嫡男の義忠が奮戦したからこそ、現在の鎌倉幕府があるとして二代将軍、頼家に義実に所領を与えるよう命じたそうです。それから僅かに3ケ月後、岡崎義実は89歳の天寿を全うし大往生しました。
義実が興した岡崎氏は孫の実忠が継いで存続しますが、健保元年(1213年)の和田合戦で実忠は和田義盛に加勢し敵の本陣に突撃して討死。一族も次々と自害し、岡崎氏は滅亡しています。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は鎌倉幕府の忠臣、岡崎義実を取り上げてみました。岡崎義実は土肥実平の姉妹を妻にしている関係から土肥氏とも関係が深かったようですが、この両者は頼朝が北条氏以外でもっとも頼りにした御家人でした。
信心と慈悲に溢れ、一介の古武士として勇猛果敢に生きた義実は権謀術数とは無縁で、むしろ、そういう事が下手であったがゆえに北条氏などに排除されず天寿を全うできたのかも知れませんね。
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