NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人、壇ノ浦の戦いも終わり、いよいよドラマは陰惨な御家人たちの権力闘争へと移っていきそうです。そんな登場人物の中で頼朝の厚い信頼を受けて急速に発言力を増しているのが佐藤二朗扮する比企能員です。
ドラマでは臆病ながら、こずるい計略を駆使し小物感を醸しだしている比企能員ですが、実際にはどんな人物だったのでしょうか?
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比企尼の甥として生まれた能員
比企能員は別名を藤四郎と言い、阿波国、または安房国の出身だと愚管抄にはあります。源頼朝の乳母として、20年以上も流人生活をしていた頼朝を支えた比企尼の夫、比企掃部允の一族でした。
比企掃部允は平将門討伐で有名な藤原秀郷の流れを汲むとされ、能員の別名が藤四郎なのは藤原の四郎を縮めたものでしょう。しかし、比企尼の夫の比企掃部允は頼朝挙兵の前に病死していて、この段階では比企能員も頼朝と接点はありません。
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頼朝の子、万寿の乳母父を任される
比企能員の運命が大きく変わるのは、頼朝の正室で御台所の北条政子が嫡男の万寿(後の将軍頼家)を出産した時です。
頼朝は鎌倉に入って権力基盤が安定を見ると、女子ばかりで男子がいない比企尼に20年も自分を支援してくれた忠節の報いとして甥の能員を猶子として推挙していました。そして、政子が産んだ万寿の乳母父に能員を抜擢したのです。
当時、乳母父は実の親に劣らない影響力があり、有力者の子の乳母父を任されるのは出世の糸口でしたから、能員の運命はここで大きく変わる事になりました。
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比企氏は北条氏の対抗馬として立てられた
しかし、不思議に思いませんか?
万寿は北条政子が産んだのだから北条氏で養育するのが自然なのに、頼朝はどうして比企能員に育てさせたのでしょうか?
実はここに政治家、頼朝のリアリストの一面が隠れています。頼朝は流人として伊豆に流されたので自前の武士団を持っていません。
挙兵にしても何にしても中心になって働いたのは舅である北条時政でした。恩義ある北条氏ですが、あまり北条氏を重用すると自分の死後、北条氏が次の将軍になる頼家の外戚として振る舞い北条氏が鎌倉幕府を乗っ取る事を警戒していたのです。
その可能性を詰むには、鎌倉に北条氏に対抗する一族を育てておく必要があり頼朝が心を許せる乳母、比企尼の一族が最適でした。だから頼朝は万寿を北条氏に養育させず、比企能員に預けたのです。
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引き立てられる比企尼の一族
頼朝が引き立てたのは能員だけではありません。頼家誕生に際しては、比企尼の次女である河越重頼の妻、比企尼の三女で平賀義信の妻も乳母として抜擢して徹底的に比企尼の一族で固めています。
ちなみに、流人時代からの頼朝側近である安達藤九郎盛長の妻は比企尼の長女でした。こうして能員は比企一族の筆頭として、次代将軍、頼家の乳母父として鎌倉に勢力を伸ばしていきました。
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幕府建国の功臣7名に選ばれる
比企能員は頼朝の信任に応えるべく、元暦元年(1184年)5月より源義高残党討伐のために信濃国に出陣。同年8月には平氏追討に従軍しました。
壇ノ浦の戦いで平家が滅んだ後、息子と共に捕虜になった平宗盛が鎌倉に護送され御簾越しに頼朝と対面した時、能員は頼朝の言葉を伝える重要な役目を仰せつかっています。
これらの功績から上野国と信濃国守護となり、文治5年(1189年)の奥州合戦では北陸道大将軍、建久元年(1190年)には東山道大将軍として出陣。
同年、頼朝が挙兵以降、はじめての上洛を果たすと右近衛大将拝賀につきそう随兵7人の中に選ばれ、右衛門尉に任ぜられます。ちなみに残りの6人は北条義時、小山朝政、和田義盛、梶原景時、土肥実平、畠山重忠と錚々たる重臣が揃っていました。
さらに頼朝の命令で頼家に嫁いだ能員の娘、若狭局が嫡男である一幡を出産。能員は将軍の外祖父の地位を確立します。
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梶原景時排斥に加担し権力を盤石にする
正治元年(1199年)源頼朝は落馬が原因で急死。二代将軍には、能員が乳母父をつとめた頼家が就任しました。
しかし、能員には北条氏以外にもライバルが登場していました。頼朝に忠実に仕え鎌倉殿一の家来と讃えられた梶原景時です。景時は頼家の信任も厚く、将軍権力を強化したい頼家の意向に沿って御家人の言動をチェックし、畠山重忠も再三、讒言されるなど御家人の恨みを買っていました。
北条時政や義時は、頼家の独裁に反対して有力御家人13人による合議制を提案して、頼家に飲ませ、能員も13人の中に名前を連ねます。
これに対して頼家も巻き返しを図り、景時もその手足となりますが、重臣であった結城朝光のつまらない一言を将軍頼家への誹謗として逮捕しようとした事で御家人の不満が爆発。
畠山重忠、和田義盛、北条時政、三浦義澄のような有力御家人66人が景時を役職から追放するように要求する66人の弾劾状を将軍頼家に提出します。この時、能員は66人の弾劾状に名前を連ね、梶原景時を失脚させる事に成功しました。
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将軍後継を巡り比企の乱で滅亡
こうしてライバルである梶原景時を排除した比企能員は将軍頼家の外戚として並ぶものがない権勢を持ちます。しかし、建仁3年(1203年)将軍頼家が病気に罹り、8月に危篤状態となると状況が一変しました。
鎌倉幕府の歴史書である「吾妻鏡」では比企の乱を以下のように記します。
8月27日北条時政が、頼家の子一幡と頼家の弟、源実朝に頼家の遺産を分与する決定を下し、関東28カ国の地頭と日本国総守護を一幡に、関西38カ国の地頭を実朝に相続する事になった。
ところが能員は一幡の取り分が少ない事に不満を持ち、頼家に時政が弟の実朝を将軍に擁立しようと企んでいると讒言。頼家は能員に時政討伐を命じた。
ところが、たまたま2人の話を障子の影で聞いていた政子が、時政に急を告げ、時政は先手を打って大江広元を味方につけると9月2日に仏事の相談があるとして能員を自宅のある名越邸に呼び出す。
計画が漏れている事を知らない能員は、さかんに引き留めて武装するように訴える一族に「武装したら逆に怪しまれる」と振り切り、平服のまま時政の屋敷に向かい、武装して待ち構えていた天野遠景と仁田忠常などの時政の軍勢に両腕を押さえつけられ引き倒されて刺殺された。
能員が殺された事を知った比企一族は、一幡の屋敷である小御所に立て籠もり防戦するが、大軍に追い詰められると屋敷に火を放って滅亡。
この時、能員の嫡男、与一兵衛尉は女装して難を逃れようとしたが見破られて斬殺。その首は謀反人として晒された。
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真相は時政のクーデター
吾妻鏡は執権である北条氏の命令で書かれた歴史書で北条氏に都合の悪い事はカットされたり歪曲されている事が知られています。
同じ比企の乱について京都にいた天台宗の僧侶慈円の日記「愚管抄」では、
頼家が広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので自ら出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとした。それでは一幡を擁する能員の世になる事を恐れた時政が能員を呼び出して殺害し、さらに一幡を殺そうと刺客を差し向けた。
一幡は母が抱いて辛うじて逃げのびるが残る一族は皆殺害され、11月には一幡も北条義時の郎党に捕らえられ刺し殺された。と記録しています。
当時の公家の日記では、頼家が存命中であるのに鎌倉から実朝の征夷大将軍就任を求める使者が来ていた事が記録されていますし、また能員が本気で時政討伐を計画していたとすれば、無防備で時政邸を訪れるなど考えにくいので、これは能員にクーデターの罪を被せた時政のでっち上げで真実は時政による比企能員の排除であったようです。
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日本史ライターkawausoの独り言
吾妻鏡のバイアスを排除すると比企能員は、鎌倉殿である頼朝の期待に応え、二代将軍頼家を立派に育て上げて鎌倉幕府の維持に貢献した忠臣であると言えそうです。
大河ドラマ鎌倉殿の13人は吾妻鏡準拠だそうなので比企能員が頼家に時政のクーデターを讒言して時政に先手を打たれて殺されるラインが採用される可能性が高いです。しかし、そう思わせておいて、愚管抄ベースで権力維持の鬼になった時政が無実の能員を騙し討ちにする説が採用されたら、それはそれで面白そうですね。
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