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北条義時とはどんな人?鎌倉幕府を全国区にした二代執権【鎌倉殿の13人】

15/01/2022


 

鎌倉殿13人 北条義時

 

2022年のNHK大河ドラマは三谷幸喜原作の「鎌倉殿(かまくらどの)の13人」です。

 

源頼朝(みなもとのよりとも)が起こした鎌倉幕府、その幕府を将軍殺しでエグく乗っ取り執権政治(しっけんせいじ)を確立した北条氏ですが、その主役である北条義時(ほうじょうよしとき)については、あまり知られていないかも知れません。

頼朝を陰日向に支えながら鎌倉幕府の実権を握った北条義時

 

そこで今回のほのぼの日本史は、鎌倉殿の13人の主人公、北条義時を解説します。

 

北条義時は何をした人かが8分でわかります!

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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長寛元年時政と伊藤入道の娘との間に生まれる

戦国時代の武家屋敷b

 

北条義時は長寛(ちょうかん)元年(1163年)北条時政(ほうじょうときまさ)伊藤入道(いとうにゅうどう)の娘との間に次男として誕生し江間小四郎(えまこしろう)と称しました。義時が15歳から16歳の頃、姉の北条政子が伊豆で流人生活を送っていた源頼朝の押しかけ女房になります。この河内源氏の御曹司(おんぞうし)である頼朝との血縁が伊豆の小豪族であった北条氏、そして義時の運命を変えていく事になりました。

 

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石橋山合戦で兄宗時が戦死

北条宗時 鎌倉

 

治承(じしょう)4年(1180年)義時は義兄頼朝の挙兵に従い、父時政、兄宗時(むねとき)と石橋山で平氏の家人大庭景親(けにん・おおば・かげちか)の軍勢と衝突し大敗、ここで兄宗時が戦死しました。これにより、義時は北条家の後継者候補になっていきます。

 

時政と義時親子は頼朝とは別行動を取り甲斐に向かい甲斐源氏の武田信義と行動を共にしました。武田信義は圧倒的な力で鉢田(はちだ)の戦い、そして富士川の戦いで平維盛の平氏追討軍を撃ち破ります。ここで時政と義時は安房国に逃げて千葉氏や上総(かずさ)氏を味方につけて勢力を拡大した頼朝に再合流しました。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

頼朝の忠実な家の子として

源頼朝と手を組んでの挙兵する北条時政

 

義時は個人的に頼朝に気に入られ頼朝の寝所を警備する家子(いえのこ)、11人の筆頭に選ばれます。家子は御家人と門葉(源氏の血縁者)の中間に位置付けられる存在でした。

 

養和2年(1182年)11月、頼朝は政子に隠れて浮気し、愛妾亀の前(あいしょうかめのまえ)伏見広綱(ふしみひろつな)の屋敷に置いて寵愛(ちょうあい)していましたが、政子はこの事を継母の牧の方から聞き激怒。牧の方の父、牧宗親に命じて広綱宅を叩き壊します。怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責(しっせき)し、宗親の(まげ)を切り落として(はずかし)めました。

 

炎上する城a(モブ)

 

これを知った時政は妻の父に対する頼朝の行動に激怒し一族を率いて伊豆に立ち退きますが、義時は父に従わず鎌倉に残り頼朝に賞賛されます。その後義時は元暦2年(1185年)源頼範(のりより)率いる平氏追討軍に属して西国に向かい、葦屋浦(あしやうら)の戦いや奥州合戦で武功をあげますが、頼朝の生前は、父の時政同様にあまり目立つ存在ではありませんでした。

 

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将軍独裁に反抗し十三人の合議制を開く

京都御所

 

頼朝の死後、頼朝の嫡男で政子の子である源頼家が将軍に就任します。

 

しかし、頼家の正室は有力御家人比企能員(ひきよしかず)の娘、若狭の(つぼね)であり、すでに跡継ぎの一幡(いちまん)も誕生していました。必然的に比企氏が頼家の外戚として権勢を振るう事になり、時政と義時は有力御家人と連携して十三人の合議制を組織して将軍権力に対抗します。

十三人の合議制の仕組みを作った北条義時

 

すでに鎌倉では、頼朝の寵愛を受け傲岸な振る舞いが多かったとされる十三人メンバー梶原景時(かじわらかげとき)が宿老の結城朝光(ゆうきともみつ)讒言(ざんげん)で失脚させようとして失敗し、逆に66人の御家人から景時糾弾(きゅうだん)の連判状を突きつけられ失脚し京都に上洛する途中に殺害される事件が起きています。

 

実はこの梶原景時の変で結城朝光に梶原景時があなたを捕らえて殺そうとしていると告げ口したのは、義時や政子の同母妹である阿波局(あわのつぼね)でした。彼女は後に三代将軍になる源実朝の乳母であり時政や義時も梶原景時排斥に関与している可能性があります。

 

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ながら日本史

 

 

比企一族を滅ぼし将軍頼家を暗殺

 

さらに建仁3年(1203年)7月に頼家が病に倒れ危篤状態になると9月2日に北条時政は頼家の外戚である比企能員を自宅に呼び出して謀殺。頼家の嫡子である一幡の屋敷、小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼします。

 

頼家は病から回復すると時政の所業に激怒して、討伐しようとしますが時政の御家人の根回しは済んでいて頼家に従う御家人はなく時政は頼家を将軍から下して伊豆国修善寺に追放、阿波局が乳母を務めた源実朝を3代将軍に就任させました。

 

実朝の生母も北条政子であり、乳母も阿波局である事から北条氏は将軍の外戚の地位を固めた事になります。名前が出てこない義時ですが、この頃は父の時政と歩調を合わせて多数派工作をしていたようです。

 

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畠山重忠の乱で父時政を見限る

北条時政

 

しかし、続く畠山重忠(はたけやましげただ)の乱で義時は父時政と(たもと)を分かつ事になりました。

 

切っ掛けは元久元年(1204年)11月4日京の平賀朝雅(ひらがともまさ)邸で上洛した御家人が酒宴を開いていた時、武蔵国武士団を統率する有力御家人畠山重忠の子畠山重保(しげやす)と屋敷の主人平賀朝雅の間で起きた口論でした。

 

公家同士の会議(モブ)

 

口論自体は周囲の取りなしで収まりますが、この些細な口論が後に畠山氏滅亡に繋がります。

翌日の11月5日、重保と共に上洛していた北条時政と後妻牧の方唯一の男子、北条政範(ほうじょうまさのり)が15歳で急死。これを受けて牧の方と北条時頼は将来に危機感を持ち、畠山一族を早いうちに滅ぼしてしまう事を決意します。

元久3年(1205年)6月21日、牧の方の娘婿平賀朝雅は重保に悪口を受けたと牧の方に讒訴(ざんそ)、牧の方はこれを重忠父子の謀反であると時政に訴えます。

 

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

時政は子の義時と時房に重忠討伐を相談すると、2人とも「重忠は忠義者(ちゅうぎもの)で謀反など起こすわけがない」と反対しました。しかし、その場に居合わせた牧の方の兄、大岡時親(おおおかときちか)に「牧の方が継母(ままはは)だから賛同しないのだろう」と迫られ、義時は止む無く重忠討伐に同意します。

 

こうして二俣川の戦いで重忠と重保父子は討ち取られる事になりますが、無実の畠山氏を討伐した事で時政に対する御家人の不信感が募りました。

常に勝ち馬を当てる北条義時

 

さらに時政は3代将軍実朝を廃し娘婿の平賀朝雅を4代将軍に据えようと策謀、これに対して義時と政子は結託して反対に回り、御家人の支持を集めて時政を失脚させ平賀朝雅を畠山重忠の仇とばかりに処刑します。これを牧氏事件と言います。

武蔵国は有力御家人の畠山重忠と平賀朝雅の排除により、義時が信頼する弟の時房が守護・国司となり義時の政治基盤は強化されました。

 

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侍所長官和田義盛を葬り幕府の頂点へ

戦いを決意する北条義時

 

以後、義時は強引すぎた父、時政のやり方を反省し、緩急(かんきゅう)をつけた政治方針を採用し御家人の反発を受けた政策は引っ込め、次のタイミングを狙うようになります。

 

建保元年(1213年)義時は鎌倉幕府の軍事組織侍所別当(さむらいどころべっとう)和田義盛(わだよしもり)を挑発して蜂起に追い込んで殺害。政所と侍所の長官を兼ね、名実共に鎌倉幕府の頂点に立ちます。

 

承久元年(1219年)正月、鎌倉幕府3代将軍源実朝が先代将軍頼家の子公暁(こうぎょう)に暗殺される事件が起き源氏の正統が断絶しました。この暗殺事件には義時が関与しているとする説もありますがハッキリした事は分かりません。

 

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摂関家から将軍を迎え執権政治を確立

朝廷(天皇)

 

実朝暗殺後、幕府は新たな将軍として親王(しんのう)の鎌倉下向を朝廷に要請しますが後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)はこれを拒否。幕府との間で何度も話し合いがもたれた結果、上皇は「皇子でさえなければ摂関家(せっかんけ)の子弟であろうと鎌倉殿として派遣して構わない」とする妥協案を提示しました。

 

鎌倉幕府は親王将軍を諦め、頼朝の遠い親戚である摂関家の藤原頼経(ふじわらのよりつね)を4代将軍として迎え入れます。しかし、頼経は当時清吾1年余りの幼児で実際の将軍輔任は7年後でした。

北条政子 女性 鎌倉

 

このため、その期間は北条政子が尼将軍(あましょうぐん)として頼経の後見人となり鎌倉殿の地位を代行し、義時が政子を補佐する執権政治が確立します。

 

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承久の乱に勝利し鎌倉幕府を全国区にする

幕末70-8_天皇(シルエット)

 

執権政治が確立すると、源氏でも平家でもない御家人北条氏の独裁に後鳥羽上皇が不満を持ちます。後鳥羽上皇は着々と軍備を拡張し承久3年(1221年)5月14日、流鏑馬(やぶさめ)ぞろいと称して諸国の兵を招集、院政内の親鎌倉派を粛清して幕府の京都守護伊賀季光(いがすえみつ)を殺して討幕の兵を挙げました。

 

義時最大の危機でしたが、ここで姉の北条政子が「武士の地位が向上し貴族の下働きをしなくてよくなったのは誰のお陰か」と頼朝の恩義を強調。動揺する御家人を1つにまとめあげます。さらに軍議では大江広元が「防御しては東国御家人の動揺を招くので京都に出撃すべし」と助言し京都進撃が決定しました。

 

蒙古兵に先駆けをする竹崎季長

 

義時は嫡男北条泰時(ほうじょうやすとき)を総大将として東海道から京都へ向けて軍勢を派遣し、次男朝時(ともとき)と弟時房(ときふさ)を大将軍として北陸・東山の三道から上洛させます。積極作戦は成功し東国武士たちが続々と動員令に応じ総勢19万の大軍となって都へ攻め上りました。

 

幕末77-14_錦の御旗

 

一方で後鳥羽上皇の側には思ったほどに兵が集まらず、また討幕を命じれば義時の首はすぐに獲れると楽観していたので東国での寝返り工作もしていません。上皇軍は連戦連敗して宇治川の最終防衛ラインも破られ6月15日に幕府軍は京都を制圧します。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

義時は乱に加担した後鳥羽上皇、順徳(じゅんとく)上皇、土御門(つちみかど)上皇をすべて島流しにし在位70日の仲恭(ちゅうきょう)天皇を廃位して、新しく後堀河(ほりかわ)天皇を擁立。上皇方についた貴族や武士の所領30,000カ所は没収され、新たに関東御家人に恩賞として与えられ、鎌倉幕府の勢力は西国にまで伸びて朝廷との力関係は完全に逆転しました。

 

頼朝が起こした鎌倉幕府は東国の地方政権でしたが、承久の乱に北条義時が勝利した事で、その勢力は西日本にまで及ぶようになり鎌倉幕府は全国区を統治する政権になったのです。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は鎌倉殿の13人の主人公、北条義時について解説してみました。

 

頼朝存命中は、全く目立たない義時ですが、頼朝死後は北条家存続の為に梶原景時、比企能員を謀略で滅ぼし、さらには頼朝の子、源頼家も殺害に追い込んでいくのは仁義なき鎌倉武士という感じがします。

 

ところが、そんな一枚岩の北条氏も父の時頼が後妻牧の方の言いなりになり、先妻の子の義時、政子と畠山重忠の乱を巡り対立。義時と政子が結託し、牧氏事件で時政を隠居に追い込む等、内ゲバが爆発します。でも、案外、義時当人は生き残る為に必死で悪い事をしている自覚は無かったかも知れませんね。

 

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元寇

 

 

 

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