2022年のNHK大河ドラマは三谷幸喜原作の「鎌倉殿の13人」です。
源頼朝が起こした鎌倉幕府、その幕府を将軍殺しでエグく乗っ取り執権政治を確立した北条氏ですが、その主役である北条義時については、あまり知られていないかも知れません。
そこで今回のほのぼの日本史は、鎌倉殿の13人の主人公、北条義時を解説します。
北条義時は何をした人かが8分でわかります!
この記事の目次
長寛元年時政と伊藤入道の娘との間に生まれる
北条義時は長寛元年(1163年)北条時政と伊藤入道の娘との間に次男として誕生し江間小四郎と称しました。義時が15歳から16歳の頃、姉の北条政子が伊豆で流人生活を送っていた源頼朝の押しかけ女房になります。この河内源氏の御曹司である頼朝との血縁が伊豆の小豪族であった北条氏、そして義時の運命を変えていく事になりました。
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石橋山合戦で兄宗時が戦死
治承4年(1180年)義時は義兄頼朝の挙兵に従い、父時政、兄宗時と石橋山で平氏の家人大庭景親の軍勢と衝突し大敗、ここで兄宗時が戦死しました。これにより、義時は北条家の後継者候補になっていきます。
時政と義時親子は頼朝とは別行動を取り甲斐に向かい甲斐源氏の武田信義と行動を共にしました。武田信義は圧倒的な力で鉢田の戦い、そして富士川の戦いで平維盛の平氏追討軍を撃ち破ります。ここで時政と義時は安房国に逃げて千葉氏や上総氏を味方につけて勢力を拡大した頼朝に再合流しました。
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頼朝の忠実な家の子として
義時は個人的に頼朝に気に入られ頼朝の寝所を警備する家子、11人の筆頭に選ばれます。家子は御家人と門葉(源氏の血縁者)の中間に位置付けられる存在でした。
養和2年(1182年)11月、頼朝は政子に隠れて浮気し、愛妾亀の前を伏見広綱の屋敷に置いて寵愛していましたが、政子はこの事を継母の牧の方から聞き激怒。牧の方の父、牧宗親に命じて広綱宅を叩き壊します。怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髷を切り落として辱めました。
これを知った時政は妻の父に対する頼朝の行動に激怒し一族を率いて伊豆に立ち退きますが、義時は父に従わず鎌倉に残り頼朝に賞賛されます。その後義時は元暦2年(1185年)源頼範率いる平氏追討軍に属して西国に向かい、葦屋浦の戦いや奥州合戦で武功をあげますが、頼朝の生前は、父の時政同様にあまり目立つ存在ではありませんでした。
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将軍独裁に反抗し十三人の合議制を開く
頼朝の死後、頼朝の嫡男で政子の子である源頼家が将軍に就任します。
しかし、頼家の正室は有力御家人比企能員の娘、若狭の局であり、すでに跡継ぎの一幡も誕生していました。必然的に比企氏が頼家の外戚として権勢を振るう事になり、時政と義時は有力御家人と連携して十三人の合議制を組織して将軍権力に対抗します。
すでに鎌倉では、頼朝の寵愛を受け傲岸な振る舞いが多かったとされる十三人メンバー梶原景時が宿老の結城朝光を讒言で失脚させようとして失敗し、逆に66人の御家人から景時糾弾の連判状を突きつけられ失脚し京都に上洛する途中に殺害される事件が起きています。
実はこの梶原景時の変で結城朝光に梶原景時があなたを捕らえて殺そうとしていると告げ口したのは、義時や政子の同母妹である阿波局でした。彼女は後に三代将軍になる源実朝の乳母であり時政や義時も梶原景時排斥に関与している可能性があります。
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比企一族を滅ぼし将軍頼家を暗殺
さらに建仁3年(1203年)7月に頼家が病に倒れ危篤状態になると9月2日に北条時政は頼家の外戚である比企能員を自宅に呼び出して謀殺。頼家の嫡子である一幡の屋敷、小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼします。
頼家は病から回復すると時政の所業に激怒して、討伐しようとしますが時政の御家人の根回しは済んでいて頼家に従う御家人はなく時政は頼家を将軍から下して伊豆国修善寺に追放、阿波局が乳母を務めた源実朝を3代将軍に就任させました。
実朝の生母も北条政子であり、乳母も阿波局である事から北条氏は将軍の外戚の地位を固めた事になります。名前が出てこない義時ですが、この頃は父の時政と歩調を合わせて多数派工作をしていたようです。
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畠山重忠の乱で父時政を見限る
しかし、続く畠山重忠の乱で義時は父時政と袂を分かつ事になりました。
切っ掛けは元久元年(1204年)11月4日京の平賀朝雅邸で上洛した御家人が酒宴を開いていた時、武蔵国武士団を統率する有力御家人畠山重忠の子畠山重保と屋敷の主人平賀朝雅の間で起きた口論でした。
口論自体は周囲の取りなしで収まりますが、この些細な口論が後に畠山氏滅亡に繋がります。
翌日の11月5日、重保と共に上洛していた北条時政と後妻牧の方唯一の男子、北条政範が15歳で急死。これを受けて牧の方と北条時頼は将来に危機感を持ち、畠山一族を早いうちに滅ぼしてしまう事を決意します。
元久3年(1205年)6月21日、牧の方の娘婿平賀朝雅は重保に悪口を受けたと牧の方に讒訴、牧の方はこれを重忠父子の謀反であると時政に訴えます。
時政は子の義時と時房に重忠討伐を相談すると、2人とも「重忠は忠義者で謀反など起こすわけがない」と反対しました。しかし、その場に居合わせた牧の方の兄、大岡時親に「牧の方が継母だから賛同しないのだろう」と迫られ、義時は止む無く重忠討伐に同意します。
こうして二俣川の戦いで重忠と重保父子は討ち取られる事になりますが、無実の畠山氏を討伐した事で時政に対する御家人の不信感が募りました。
さらに時政は3代将軍実朝を廃し娘婿の平賀朝雅を4代将軍に据えようと策謀、これに対して義時と政子は結託して反対に回り、御家人の支持を集めて時政を失脚させ平賀朝雅を畠山重忠の仇とばかりに処刑します。これを牧氏事件と言います。
武蔵国は有力御家人の畠山重忠と平賀朝雅の排除により、義時が信頼する弟の時房が守護・国司となり義時の政治基盤は強化されました。
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侍所長官和田義盛を葬り幕府の頂点へ
以後、義時は強引すぎた父、時政のやり方を反省し、緩急をつけた政治方針を採用し御家人の反発を受けた政策は引っ込め、次のタイミングを狙うようになります。
建保元年(1213年)義時は鎌倉幕府の軍事組織侍所別当、和田義盛を挑発して蜂起に追い込んで殺害。政所と侍所の長官を兼ね、名実共に鎌倉幕府の頂点に立ちます。
承久元年(1219年)正月、鎌倉幕府3代将軍源実朝が先代将軍頼家の子公暁に暗殺される事件が起き源氏の正統が断絶しました。この暗殺事件には義時が関与しているとする説もありますがハッキリした事は分かりません。
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摂関家から将軍を迎え執権政治を確立
実朝暗殺後、幕府は新たな将軍として親王の鎌倉下向を朝廷に要請しますが後鳥羽上皇はこれを拒否。幕府との間で何度も話し合いがもたれた結果、上皇は「皇子でさえなければ摂関家の子弟であろうと鎌倉殿として派遣して構わない」とする妥協案を提示しました。
鎌倉幕府は親王将軍を諦め、頼朝の遠い親戚である摂関家の藤原頼経を4代将軍として迎え入れます。しかし、頼経は当時清吾1年余りの幼児で実際の将軍輔任は7年後でした。
このため、その期間は北条政子が尼将軍として頼経の後見人となり鎌倉殿の地位を代行し、義時が政子を補佐する執権政治が確立します。
承久の乱に勝利し鎌倉幕府を全国区にする
執権政治が確立すると、源氏でも平家でもない御家人北条氏の独裁に後鳥羽上皇が不満を持ちます。後鳥羽上皇は着々と軍備を拡張し承久3年(1221年)5月14日、流鏑馬ぞろいと称して諸国の兵を招集、院政内の親鎌倉派を粛清して幕府の京都守護伊賀季光を殺して討幕の兵を挙げました。
義時最大の危機でしたが、ここで姉の北条政子が「武士の地位が向上し貴族の下働きをしなくてよくなったのは誰のお陰か」と頼朝の恩義を強調。動揺する御家人を1つにまとめあげます。さらに軍議では大江広元が「防御しては東国御家人の動揺を招くので京都に出撃すべし」と助言し京都進撃が決定しました。
義時は嫡男北条泰時を総大将として東海道から京都へ向けて軍勢を派遣し、次男朝時と弟時房を大将軍として北陸・東山の三道から上洛させます。積極作戦は成功し東国武士たちが続々と動員令に応じ総勢19万の大軍となって都へ攻め上りました。
一方で後鳥羽上皇の側には思ったほどに兵が集まらず、また討幕を命じれば義時の首はすぐに獲れると楽観していたので東国での寝返り工作もしていません。上皇軍は連戦連敗して宇治川の最終防衛ラインも破られ6月15日に幕府軍は京都を制圧します。
義時は乱に加担した後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇をすべて島流しにし在位70日の仲恭天皇を廃位して、新しく後堀河天皇を擁立。上皇方についた貴族や武士の所領30,000カ所は没収され、新たに関東御家人に恩賞として与えられ、鎌倉幕府の勢力は西国にまで伸びて朝廷との力関係は完全に逆転しました。
頼朝が起こした鎌倉幕府は東国の地方政権でしたが、承久の乱に北条義時が勝利した事で、その勢力は西日本にまで及ぶようになり鎌倉幕府は全国区を統治する政権になったのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は鎌倉殿の13人の主人公、北条義時について解説してみました。
頼朝存命中は、全く目立たない義時ですが、頼朝死後は北条家存続の為に梶原景時、比企能員を謀略で滅ぼし、さらには頼朝の子、源頼家も殺害に追い込んでいくのは仁義なき鎌倉武士という感じがします。
ところが、そんな一枚岩の北条氏も父の時頼が後妻牧の方の言いなりになり、先妻の子の義時、政子と畠山重忠の乱を巡り対立。義時と政子が結託し、牧氏事件で時政を隠居に追い込む等、内ゲバが爆発します。でも、案外、義時当人は生き残る為に必死で悪い事をしている自覚は無かったかも知れませんね。
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