本多忠勝は徳川家康の四天王の1人です。勇猛な性格で何度も家康のピンチを救いました。今回は、そんな徳川家の名将、本多忠勝について解説します。
この記事の目次
本多忠勝のプロフィール
本多忠勝は天文17年(1548年)に誕生しました。
13歳の時、桶狭間の戦いの前哨戦である大高城の兵糧入れで初陣を飾り、三河一向一揆鎮圧では徳川方として参戦。一言坂の戦いでは、武田信玄の重臣、馬場信春の猛攻を無勢でしのぎきり、三方ヶ原の戦いでは山県昌景を撃退します。
長篠の戦いでは、武田軍を全滅させるのに功績をあげ、本能寺の変では家康のボディーガードとして伊賀越えを成功に導きました。小牧長久手の戦いでは、留守を任されましたが、秀吉軍16万人に対し徳川が窮地に陥ると独断で出陣、秀吉本隊8万人を僅か500名で足止めし。戦後、秀吉から東国一の勇士として激賞されています。
徳川氏が東海から関東に移封されると、上総国夷隅郡大喜多10万石の大名となり、関ケ原の戦いでは、僅かな手勢で90もの首を挙げる活躍をし伊勢国桑名10万石に移封されます。しかし、1604年頃から病気に苦しむようになり、次第に幕府中枢から遠ざかり、1610年62歳で死去しています。
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本多忠勝は何をした人?
本多忠勝は徳川家康の前身である松平元康時代から仕えた勇猛な武将です。6mの長さがある蜻蛉切と呼ばれる槍を奮い、絶望的な戦況でも全滅することなく戦い抜き不敗。そして、生涯に一度も手傷を負わなかったとされる最強武将で、井伊直政、榊原康政、酒井忠次と並んで徳川四天王と呼ばれています。
本多忠勝の身長は?
本多忠勝はドラマや映画だと大男として描かれますが、身長はそれほど高くなく鎧の胴部分から考えると160センチ前後です。これは当時の男性の平均身長であり、本多忠勝は大男ではありません。
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名槍、蜻蛉切の特徴は?
蜻蛉切は本多忠勝愛用の槍で、刃の長さは43.8センチ全長は6mもあったと伝わります。晩年は体力の衰えがあったのか槍を90センチほど詰めています。それでも当時の槍の平均である4.5mよりは60センチも長いので大したものです。名前の由来は、槍の刃先に留まった蜻蛉の胴体が真っ二つに切れたからだそうです。
本多忠勝の傲岸不遜な名言
本多忠勝には自分の武勇を誇る傲岸不遜な名言があります。関ケ原の戦いで大活躍した忠勝を同じく東軍の福島正則が褒めると「采配が良かったのではない敵が弱すぎたのだ」と言い放ったそうです。石田三成が聞いたらキーーーーッとなりますよ。キー――ッ!!
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本多忠勝の怪我
本多忠勝は生涯に五十七回の合戦に参加し、かすり傷一つ負う事が無かったそうです。しかし、晩年、忠勝は小刀を使っている時誤って小指を切ってしまい、それを見た忠勝は「無傷の平八郎も傷を負っては、もうオシマイ」と死期を悟りまもなく死んでしまったそうです。
本多忠勝の領地
本多忠勝は、徳川家康が関東に移封された後、上総国夷隅郡大多喜に10万石を与えられ大名になっています。関ケ原の合戦の後、伊勢国桑名10万石に移封となり、桑名藩発展に尽力しました。
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本多忠勝は戦国最強説
本多忠勝は生涯に五十七回の合戦に参加し、かすり傷も負わなかったと言われています。通常、戦国武将は傷だらけで、手や足の指が欠落しているのは当たり前だったので、傷一つも負わない忠勝は圧倒的な強さを誇っていたと考えられ、戦国最強とも称されています。
本多忠勝はどこの大名?
本多忠勝は、最初、上総国夷隅郡大喜多に10万石を与えられ大名になりました。こちらは千葉県南部にある都市です。関ケ原の戦いで家康が勝利すると忠勝は転封となり、三重県北部にある桑名に10万石で移封しています。
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戦国大名で一番強かったのは誰なのか?
戦国大名で一番強かったのは誰かについては、生涯に多くの名将を見てきた豊臣秀吉が本多忠勝を「日本第一、古今独歩の勇士」あるいは「東国一の勇士」と称えています。逆に西国では立花宗茂を最強の勇士としていて、戦国最強と言えば、本多忠勝と立花宗茂のどちらかという事になりそうです。
本多忠勝の性格
本多忠勝の性格は、例え手柄を立てられなくても弱くても、最後は主君と枕を並べて死ぬのが誠の武士と言っているように家康大好きっ子でした。晩年は剛直な性格ゆえに家康と仲違いしていたとされる忠勝ですが、死ぬ間際には「死にたくない、まだ死にたくない、主君が元気なうちは、私も武士として役目を果たしたい」と遺言を残しているようで、家康大好きぶりが伝わります。
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本多忠勝の父、本多忠高
本多忠高は、父の本多忠豊と共に松平家に長く仕えた忠臣でした。小豆坂の戦いでは、尾張の織田信秀を退け、家康の父である広忠が家臣の岩崎久弥に暗殺された後も動揺せずに松平家に仕え、救援を出してきた今川軍と共に、織田家の重要拠点である三河安祥城を落すべく奮戦。その途中に眉間を矢に貫かれて戦死しました。
本多忠勝の特徴
本多忠勝の特徴と言えば、鹿角の前立てと肩から下げた大きな数珠でしょう。鹿角は和紙を何枚も張り重ねた張り子で、見た目よりは軽く、数珠については信仰心が篤かった忠勝が、自分が殺した敵を供養するために身に着けていたそうです。
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本多忠勝の無敗伝説
本多忠勝は最強であるばかりではなく無敗でした。1572年、最強武田軍団が遠江に侵攻してきた際に、忠勝は偵察部隊を率いて様子を見にいきますが、その途中に武田の本隊と遭遇します。忠勝は、名将馬場信春の軍勢に押し込まれ、坂下と呼ばれる不利な地形に追い込まれました。
しかし、忠勝は同じく殿を務めた大久保忠佐と奮戦し、家康の本体が退却する時間を造った上で退却しています。火の出るような武田軍の猛攻をしのいで生き残った忠勝は、まさに無敗と呼べるでしょう。
本多忠勝の娘、小松姫
本多忠勝の娘としては、真田信之に嫁いだ小松姫が有名です。伝承によると小松姫は男勝りな性格であり、肖像画も鎧兜を着用した姿で描かれています。小松姫は将軍である徳川家康や秀忠に対しても直接意見するなど勇敢な女性だったようです。
伝承によれば、関ケ原の戦いで夫の信之が東軍につき、西軍についた昌幸と信繁が城を奪うつもりで小松姫がいる沼田城に立ち寄ったのを見抜き、毅然として城へ入れなかったとする武勇伝があります。
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本多忠勝のユニークな辞世の句
本多忠勝の辞世の句は、五十七回の合戦を乗りきった猛将とも思えないユニークなもので、「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」です。死にたくないと3回も繰り返すのが特徴で、あんな勇将でも死ぬのは怖いのかと思いますが、最後に家康から受けた恩義について触れている事で、もっと生きて家康に忠義を尽くしたかったという無念が伝わってきます。
本多忠勝の子孫は現在まで続く
本多忠勝の子孫は現在まで伝わっています。一番の著名人は、忠勝の次男である本多忠朝の子孫である、楽天グループの会長兼社長、三木谷浩史氏です。また、本多忠勝の孫の本多忠刻は、豊臣秀頼の正室で家康の孫である千姫と再婚し、その家系からは最後の将軍、徳川慶喜が出ています。
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本多忠勝のサイヤ人みたいな逸話
本多忠勝は戦場で強い武士と戦う事が生き甲斐であったようです。1575年長篠の戦いで、織田と徳川の連合軍が武田勝頼の軍勢を撃ち破りますが、この時、忠勝は浮かぬ顔をしていたそうです。その理由は、今度の戦で武田の勇士が大勢死んでしまい、今後は血が騒ぐような戦いは出来ないだろうと思ったからだそうで、根っからの戦人ぶりが窺えます。
本多忠勝の活躍
本多忠勝の有名な戦いは、1584年の小牧・長久手の戦いです。秀吉はこの時、16万の大軍で家康を攻めました。徳川軍はあまりの大軍に大苦戦を余儀なくされますが、それを知った忠勝は留守として与えられた500の手勢を率いて城を出て、秀吉軍本隊8万人の前に立ちはだかり、馬から下りて池で馬の口を悠々と洗い始めました。
忠勝の奇怪な行動と、あまりの兵の少なさに秀吉軍は、何か罠があるのではないかと疑い、進軍を躊躇しました。そのお陰で徳川軍は体勢を建て直し全滅を免れたそうです。
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本多忠勝の異名
本多忠勝の異名については、織田信長からは「今張飛」、豊臣秀吉からは「日本第一、古今独歩の勇士」と称えられています。通称は平八郎から平八とされ、幼名は鍋之助でした。
本多忠勝の伝説
忠勝の槍の腕前をしのばせる伝説的な逸話があります。ある時、息子忠政と舟遊びをしていた忠勝は、その場に生えていた葦を見て、忠政に「櫂で薙いでみよ」と言いました。忠政が薙ぐと葦はぺちゃんこになっただけでしたが忠勝が櫂を奮うと、まるで鎌で切り取ったようにスパっと葦が薙ぎ払われたそうです。
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本多忠勝のエピソード
忠勝は武士は敵の首が獲れなくても、一番最後に主君と共に死ねればいいという忠義者でした。それだけに忠誠心にこだわりがあり、ある時、武田の兵が軍旗を捨てて逃げていくと軍旗を拾い上げ、「軍旗を捨てるとは何事であるか」と嘲笑ったとする逸話があります。
本多忠勝の死因
本多忠勝の死因については、詳しい事は分かりませんが晩年は眼病を患っていたようです。目が不自由では、家康の護衛は出来ないので、それで江戸城から遠ざかっていたようですね。また、元々は6mあった槍も晩年は90センチ切り詰めて、5m10センチにしているなど、無敵の本多忠勝も寄る年波には勝てなかった事が窺えます。
日本史ライターkawausoの独り言
以上が徳川四天王、本多忠勝についての情報です。出来るだけ多角的に情報を拾い上げる為、内容をコンパクトにし、目次を多くしてみましたが、いかがだったでしょうか?
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