2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも出てくる源平の戦い。
映画やドラマで描かれる源平合戦は勝者になる源氏の視点から解説される事が多いです。しかし、逆に平氏の側から源平合戦を見てみると意外な事実が分かります。
今回は吉川弘文館 永井晋著「平氏が語る源平争乱」を参考に平氏目線から治承寿永の乱を紐といてみましょう。
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この記事の目次
連鎖反応で挙兵する頼朝
源平合戦の最初としては、以仁王による平家打倒の令旨が有名です。この蜂起には平清盛に与し公卿に上った源三位、源頼政が関係していました。以仁王の蜂起は失敗し以仁王は逃走の途中に流れ矢に当たり戦死。頼政も宇治橋で平氏の軍勢に包囲され討死します。
しかし、騒乱はこれで終わらず、源頼政の嫡孫の源有綱が伊豆で蜂起します。
平清盛は有力武士である大庭景親を伊豆に追捕に向かわせました。清盛は同時に景親に坂東にいる平氏の家人から軍勢を集める権限を与えます。
源有綱は蜂起に失敗して奥州平泉に逃げますが、これで源氏への風当たりが強くなると考えた流人の源頼朝が舅の北条時政などと共に数十騎で挙兵しました。
頼朝は源有綱を担ごうと考えていた工藤一族の加勢を得て300騎に膨れ上がり、伊豆国衙(政庁)の占領に成功し堂々たる反乱軍に成長します。同時期、信濃国では木曾義仲が挙兵し、平氏家人の笠原頼直を撃ち破って越後に敗走させ信濃一国を領有しました。
この頃、平家の討伐の優先順位は、源有綱、木曾義仲、そして源頼朝でした。頼朝に至っては名前自体を憶えている者がなく義朝子と書かれるレベルで伊豆国衙を落したと連絡が入り、ようやく頼朝の名前が判明します。
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楽勝モードの平氏だが
しかし、福原京の平氏は楽観ムードでした。
頼朝が伊豆国衙を落しても京都に進撃するルートは全て平氏家人で抑え、かつ実力者の大庭景親もいたからです。これを裏付けるように大庭景親からは9月6日に石橋山の合戦で頼朝を破った報告が届けられます。
これでいよいよ楽観ムードになった平清盛は頼朝追討軍として分家である小松家惣領の平維盛を総大将、副将として弟の平忠度・平知盛を任命して9月22日に出陣させました。
忠度は名将でしたが直属の武士は数十騎の小家に過ぎません。清盛には追討軍が到着する前に頼朝の首が届けられるという計算があり、そうでなくても勝ち戦なので、勝馬に乗りたい坂東武士が追討軍に次々に参加し兵士の質は量でカバーできると考えたのです。
これは後から考えると清盛が悔やんでも悔やみきれない大失敗となりました。
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頼朝が坂東平氏を従え勢力拡大
敗れた頼朝は、房総半島で河内源氏の家人と合流し態勢を立て直していました。特に安房国の豪族、平広常や千葉常胤が2万騎の兵力でやってきたのを頼朝が吸収したのは決定的でした。
坂東は頼朝の父、義朝が若い頃に平定して有力御家人と主従関係を深めていて頼朝にとっては全くのアウェーではなかったのです。10月15日に頼朝は鎌倉に入り根拠地と定めました。
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富士川の戦いで征討軍潰走
さらに甲斐では甲斐源氏武田信義が平家家人の駿河目代橘遠茂の3000騎を愛鷹合戦で挟撃して撃破、東海道まで軍勢を進めます。こうして僅かな期間で坂東の勢力は激変しました。
平維盛率いる追討軍は楽勝どころか兵士さえ集まらず体面を保つため京都で数日待機、これがさらに事態を悪くします。
反平氏勢力に包囲された平氏側の大庭景親と伊藤祐親が、不安を感じて軍勢を解散させ、別々に征討軍に合流しようとし頼朝側に寝返った部下に捕らえられる事件が発生したのです。
10月18日に富士川にやってきた追討軍は四千騎、それに対し甲斐源氏武田信義は4万騎と圧倒的な兵力差でした。絶望的な戦況に無断で退却したり、甲斐源氏に寝返る勢力が続出。千騎まで激減した追討軍は、裏切りに怯えながら夜陰に乗じ遠江国府に向け敗走を開始しました。
しかし、手越宿まで追討軍が退却した後、甲斐源氏に寝返った勢力が宿に火をつけたので、物音に驚いた水鳥数万羽が一斉に飛び立ち、これを敵襲と勘違いした追討軍は潰走。福原まで逃げ戻ったのは平氏一門と武官、僅か数十騎という大惨敗を喫します。
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源頼朝は富士川の合戦に無関係
富士川の合戦と同じ10月18日、源頼朝は黄瀬川の陣で奥州藤原氏から帰参してきた異母弟、源義経と対面します。そして10月20日頼朝は駿河国賀島で甲斐源氏と合流し、甲斐源氏が駿河と遠江の二国を領有する事を承認して坂東へ引き返します。
ここから分かる通り、富士川の戦いにおいて主役は甲斐源氏であり、頼朝は参加していなかったのです。
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美濃源氏と近江源氏の反乱
富士川の敗戦から1月後、今度は京都周辺を警護していた近江源氏と美濃源氏が反平氏の兵を挙げました。近江源氏の中心になったのは山本義経と柏木義兼、彼らは以仁王事件の時に王に追従して戦死した園城寺に結びついていました。
11月23日には山本義経が近江を統一し琵琶湖の船を東岸に集めた情報が京都に届いています。京都の経済の大動脈である琵琶湖を近江源氏に握られた事は平氏政権に取って大きな打撃になりました。
この段階で南関東と伊豆、下野は源頼朝、信濃と南上野は木曾義仲、甲斐・駿河・遠江は甲斐源氏、美濃は美濃源氏と諸国の源氏が支配。一方で陸奥と出羽を治める奥州藤原氏は中立、北陸道は越後平氏が平氏政権支持の立場で勢力を振るって平穏を保っていました。
11月24日、朝廷は近江源氏により琵琶湖が封鎖され物資が止められる事を恐れ、水運が不便な福原京から平安京への遷都を決定します。
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平氏反撃の開始
美濃や近江にまで反平氏の包囲網が伸びた事で朝廷は自らの生き残りをかけて戦わねばならなくなります。これまで他人事だった公家も危機意識を共有し高倉天皇は総力を挙げて平氏に協力し首都防衛戦を戦う事になりました。
近江国に向かう追討使の総大将には平知盛、伊賀道に向かう別動隊の総大将は平資盛、伊勢国には国司藤原清綱が派遣されます。
12月2日に出陣した平氏の面々は、平知盛、平知章、平通盛、平忠度、平清経、平資盛、平行盛、平知度と一門が名を連ねました。京都の警護として残ったのは、平重衡と平経正くらいです。
近江に向けて進撃を開始した平知盛の本隊は最初優勢でしたが近江源氏が柏原で美濃源氏と合流すると二千騎対四千騎と劣勢になりました。
同じ頃、南都興福寺も以仁王事件の因縁を爆発させ強訴を視野にいれて騒ぎ始めます。近江では山本義経が美濃源氏からの増援を受けて敗北して北へ押し上げられても元気であり、平氏は12月23日に平維盛に追討副将の地位を与えて知盛を援護させました。
この時には根こそぎ動員で公卿であっても関係なく家人を兵士として従軍させるよう命令があったそうです。
さらに朝廷は強訴を企てる興福寺に対し、平重衡を追捕使として派遣。12月28日、南都の追捕使と興福寺の僧兵がもみ合いになっている時に、どこからか失火し東大寺・興福寺以下の南都の大寺院を焼失させます。
興福寺は寺院の再建に追われ、合戦からは一歩引いた立場を取るようになりました。これは平氏にとってはメリットがある事になりました。
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ゴットファーザー清盛の死去
養和元年(1181年)1月14日平氏に協力的な高倉上皇が崩御します。
1月18日には平氏の棟梁である平宗盛が惣官に任命され畿内と周辺地域の兵力を直接動員できる権限が与えられました。これは平氏が国衙軍の士気の弱さを見て軍制改革を開始した最初です。
2月1日には追討使の平知盛が小嶋城を攻め落として平頼政の残党を鎮圧しました。
しかし、2カ月の長期戦に疲労した知盛はこれ以上の従軍が出来ずに京都に帰還し2月18日には一門の平重衡とバトンタッチします。
ところが閏2月2日平氏に激震が走ります。経験豊富で平氏一門の要として反平家勢力を鎮圧していたゴッドファーザー平清盛がマラリアと見られる高熱で死去したのです。これを受け2月6日には清盛に幽閉された後白河法皇が解放され院政が再開されました。
すでに後白河法皇は密かに鎌倉の源頼朝と密使を取り交わしていて、状況次第では平氏を切り、源氏を京都に迎え入れようと陰謀を巡らし始めます。
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平通盛木曾義仲に敗北も平行盛が巻き返す
平知盛とバトンタッチした平重衡は3月10日の墨俣合戦で源行家に勝利し西三河まで勢力を回復します。4月には奥州藤原氏の支援を受けた佐竹隆義が常陸に攻め込んで頼朝に撃退される事件が起きていました。
6月13日、木曾義仲は横田原合戦で平家方の城助職を撃破します。これを受けて8月13日、平通盛が北陸追討使として義仲討伐へ出陣しますが、越中国境で義仲の軍勢に敗れ、9月12日には敦賀城を攻め落とされ山林に隠れる失態となります。
平氏は醜態をさらした通盛を救出するために新しく北陸追捕使を編制し平行盛を総大将として出撃させ通盛を救い出して京都に帰還しました。行盛は敦賀と京、近江を結ぶ街道筋を抑えて義仲の進出を食い止めていましたが、西日本は養和の大飢饉で大規模な合戦が出来ず義仲とのにらみ合いが続き膠着します。
北陸宮が義仲に庇護される
寿永元年(1182年)7月、膠着していた戦線を揺るがす事件が起きました。以仁王の遺児である北陸宮を藤原重季が伴い南都を脱出して木曾義仲の勢力下に入ったのです。
これにより義仲はただの反乱軍ではなく皇位継承者を擁した官軍の地位を得ました。寿永2年(1183年)4月17日、平氏は北陸追捕使として平維盛を総大将に木曾義仲討伐に出発します。
追捕使の兵力は4万騎、それに対し木曾義仲の兵力は5千騎と兵力では平氏が圧倒していましたが、追捕使は養和年間から続く飢饉で兵糧も飼葉も不足気味で街道沿いの民家から強引に食糧を調達して進撃するものの民家も飢えに苦しんでおり、戦争を長引かせる事は出来ず早期決戦を望んでいました。
一方義仲の根拠地では飢饉の影響が深刻ではなく合戦を長引かせる余裕があります。義仲は本拠地を留守にしている間に頼朝に攻め込まれないように息子の義高を頼朝の娘の大姫と結婚させて背後の安全保障を得てから出陣しました。
追捕使は兵糧不足に加えて、平維盛、平通盛、平行盛、平知度、平経正、平清房と六人の大将軍に平忠度、平維時、平広盛と多くの分家が参加し命令系統がバラバラでした。
優勢な騎兵を擁した平氏ですが戦場は山がちで大軍が展開するには不向きであり、右往左往が続いた末に6月1日に倶利伽羅峠の戦いで義仲軍に大敗し平知度を筆頭に多くの歴戦の武士を失います。
さらに平氏の軍勢は篠原合戦でも義仲に破れ京都を維持する戦力を失いました。
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日本史ライターkawausoの独り言
清盛の痛恨の計算ミスにより、息を吹き返して鎌倉に大勢力を築く頼朝。
さらには、北陸道では木曾義仲が以仁王の遺児北陸宮を庇護し、反乱軍討伐だった源平の戦いは後白河天皇vs安徳天皇vs北陸宮という皇位継承を巡る争いへと変化します。そして、義仲に敗れて京都を維持できなくなった平氏は都落ちという屈辱を選択する事になるのですが、ここからの話はpart2で解説します。
次回記事:源平合戦を平家の側から見ると意外な事が分かる!平氏目線の治承・寿永の乱【後半】
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