源義経の功績とは?平家打倒に大きく貢献した悲劇の英雄

24/04/2022


平家を滅ぼした最大の功労者・源義経

 

源義経(みなもとのよしつね)といえば平家(へいけ)打倒に大きく貢献し、その戦の上手さから鎌倉(かまくら)時代のヒーローという印象もありますね。また、悲劇的な死を迎えたことから、負けた人に同情することを意味する「判官びいき」という言葉も生まれました。

 

義経記 書類

 

今回の記事ではそんな源義経の「功績」について調べてみたいと思います。まずは義経の生い立ちから見てみましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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誕生と頼朝との再会

源頼朝と生き別れた弟・源義経

 

源義経は源氏の棟梁である「源義朝(みなもとのよしとも)」の9男として生まれました。源頼朝(みなもとのよりとも)の弟にあたります。父が「平治(へいじ)の乱」で敗死すると、難を逃れるために「鞍馬寺(くらまでら)」に僧になるために預けられます。

 

藤原秀衡を振り切り密かに館を抜け出す源義経

 

しかし、義経は僧になるのを嫌がり、鞍馬寺を脱出し、「奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)」が治める平泉(ひらいずみ)に身を寄せることになり、奥州藤原氏の当主「藤原秀衡(ふじわらのひでひら)」が彼を養育します。

 

兄・頼朝の挙兵に参戦する源義経

 

そんな中、兄の源頼朝が平家打倒のために挙兵、義経もそれにはせ参じ、兄弟は感動の再会を果たします。そして義経は平家との戦いで数々の功績をあげていくのです。

 

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はじめての平安時代

 

 

源義経の功績1「宇治川の戦い」で源義仲を破る

木曾義仲(源義仲)武士 鎌倉

 

源頼朝とは別に挙兵した「源義仲(みなもとのよしなか)」は平家の軍を破り京に入りました。しかし義仲の兵は統制があまりとれておらず、京で乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を働いたことなどから、当時の「後白河法皇(ごしらかわほうおう)」にも嫌われ、逆に追討令が出されてしまいます。

 

追討を命じられた義経は義仲軍の雨のような矢を見事に突破し、宇治川を渡り義仲本隊と交戦します。激戦の末、義経は義仲を破り、京に入ることに成功したのです。

 

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

源義経の功績2 義経の名を天下に広めた「一ノ谷の戦い」

源氏と平氏が対立(平清盛と源義経)

 

源氏同士が争っている間に平家は勢力を回復し、九州から摂津の国に進撃、強力な陣を敷きました。正面から対するのは不利と悟った義経はわずかな兵とともに山中の難路を行軍します。そして義経は断崖絶壁に到達、そこは平家陣営の裏手の山側になり、平家軍は警戒をしていませんでした。

 

源義経 鎌倉時代

 

義経が難路を進軍する中、正面では平家軍と「源範頼(みなもとののりより)」率いる源氏軍が激戦を繰り広げますが、平家は激しく抵抗します。そこで義経は断崖絶壁を駆け下りて平家を奇襲すること(逆落とし)を決断、怖気づく他の武者たちをしり目に義経は自ら絶壁を駆け下ります。

 

次々と奇跡を起こす天才武将・源義経

 

それに続く部下たち。予想もしなかった方向から奇襲された平家軍は大混乱、逃亡するものが続出します。そして正面でも動揺する平家軍を範頼本隊が撃破、平家は多くの一門衆が討ち取られ源氏が大勝、一躍義経の名は全国に知られるようになります。

 

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源頼朝

 

 

源義経の功績3 平家を追い込んだ「屋島の戦い」

 

平家は一の谷で敗れましたが、まだ九州や四国などでは勢力を保っていました。そのため、平家追討のために範頼が九州へ派遣されます。

 

しかし、補給に苦戦し、進軍が遅れます。そこで京で治安維持にあたっていた義経が援軍として派遣されることになりました。

 

義経は範頼の背後を脅かす、四国の平家勢力を駆逐するために摂津から四国に出向しようとします。天気は暴風雨でしたが義経は無理やり出航し、四国に上陸します。

 

そこで「屋島(やしま)」(現在の高松市)の平家が手薄という情報を得てそこを奇襲することにします。義経は少数の兵力でしたが、民家に火をつけて大軍だと見せかけて驚いた平家は逃げ出します。

 

しかし、義経の兵力が少数だと気が付いた平家は屋島で逆襲、激戦となります。そこでかの有名な「那須与一(なすのよいち)」が的を弓で射る「(おうぎ)(まと)」のエピソードが発生するのです。そして義経は平家軍を破り、四国と九州の拠点を失った平家は追い込まれます。

 

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源義経

 

 

源義経の功績4 平家滅亡「壇ノ浦の戦い」

 

追い込まれた平家は「彦島(ひこしま)」(今の山口県)に拠点を置きます。平家にとどめを刺すため、源義経は自ら大将となって平家との決戦に臨みます。

 

そして「壇ノ浦(だんのうら)」にて戦いが始まり、水軍に長けた平家が当初は戦いを優位に進めます。ここで不利になった義経は船の漕ぎ手を矢で射る作戦をとります(諸説あり)。漕ぎ手を殺すことは当時ではタブーでしたが、このことに加え、潮の流れが変わったことから平家は逆にピンチに陥ります。

 

源義経の八艘飛び

 

平家の「平教経(たいらののりつね)」は起死回生のために義経の首を狙いますが、義経は船から船へと飛び移り逃げ去ってしまいます(義経の八艘飛(はっそうと)び)。やがて平家の武将は次々と討ち取られるか捕まり、平家は滅亡することになります。

 

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北条義時

 

 

その後の義経

激怒した頼朝、義経討伐を命じる

 

おおくの功績を残した義経でしたが、あまりの功績の大きさからか頼朝と対立、追い込まれて奥州に逃げた義経でしたが、最期は自害してしまうのです。

 

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鎌倉殿の13人

 

 

日本史ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

義経の功績は大きなものでしたが、そのことが彼の命を縮めてしまったようです。おそらく人望も足りなかったのでしょう、今でも有能な人がいまいち、報われないことはありますよね。仕事だけでなく、周囲の根回しも大事、ということなのでしょう。

 

 

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日本史で好きなところは一つの「決断」が大きく世の中を変えてしまうことでしょうか。そんな中でも「決断」にミスをしても、その後復活したりする人物には尊敬をかんじますね。自分もミスしてもあきらめずに過ごしたいものです。
好きな歴史人物:長宗我部盛親、立花宗茂

-鎌倉時代
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