NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人第18話は「壇ノ浦で舞った男」です。今回で栄華を誇った平家は滅びますが、次々と海に身を投げる平家一門の中で特に悲劇的なのは、わずか8歳で平家一門と運命を共にした安徳天皇でしょう。
しかし現代人の観点から見ると、わずか8歳の天皇を道づれに壇ノ浦に沈んだ平家の行動は理解しにくい点もありますね。今回は安徳天皇の短い生涯を含めて、どうして安徳天皇が死なねばならなかったのかを考察してみます。
この記事の目次
平家の血が色濃い天皇
安徳天皇は諱を言仁と言い、治承2年(1178年)に誕生します。
天皇は誕生した瞬間から平家と生死を共にする事を宿命づけられていた人物でした。まず、父である高倉天皇の父は後白河法皇で生母は平清盛の継室、時子の妹、滋子です。そして、高倉天皇の皇后は清盛と時子の間に生まれた平徳子でした。
つまり、安徳天皇から見ると祖父母も平家、父母の平家の血が流れている事になり、誕生の瞬間から平家の天皇となる事が宿命づけられています。そしてこの事が壇ノ浦で幼い天皇が平家一門と滅ぶ事になる大きな理由になるのです。
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外祖父清盛により3歳で即位する
安徳天皇の外祖父である平清盛は平家の勢力拡大で利害が対立するようになった後白河法皇を幽閉。言仁親王を皇太子に立て、治承4年(1180年)数え年で3歳になった親王を安徳天皇として即位させます。
これにより高倉天皇は上皇になりますが、上皇の生母は清盛の義理の妹である平滋子で、高倉天皇の皇后は清盛の娘、徳子なのですでに上皇も平家の人間に等しい状態です。
こうして、清盛は後白河法皇の影響力を断ち切り、上皇の義父、天皇の祖父として日本の権力の頂点に立ちました。
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清盛の死で安徳天皇の立場に陰りが生じる
しかし法皇を幽閉して権力を握った清盛のやり方に反平家の機運が拡大、以仁王の挙兵により全国で源氏による蜂起が頻発します。それでも清盛が存命の間は反乱を抑えていましたが、富士川の戦いにおける平家の大敗や高倉上皇の疫病での急死。さらに清盛も熱病で養和元年(1181年)に死去すると、平家は幽閉した後白河法皇を解放せざる得なくなり法皇の勢力が拡大しました。
すでに法皇は平家を見限り、隠密裏に鎌倉の源頼朝と連絡を取るなど平家打倒の謀略を繰り返していきます。
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五歳で都を離れる
寿永3年(1183年)倶利伽羅峠の戦いで平維盛の大軍を破った源(木曾)義仲が北陸道から諸勢力を吸収して上洛。
すでに都を守る力もない平家は都落ちを決意し、3種の神器と僅か5歳の安徳天皇の身柄を確保し九州を目指して落ちていきました。平家の棟梁である平宗盛は後白河法皇も連れて行くつもりでしたが、すでに法皇は身を隠していて断念します。
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日本史上に2人の天皇が出現
後白河法皇は平家に対し、安徳天皇と3種の神器の返還を求めますが宗盛は応じません。天皇不在の状態を継続させるわけにはいかないので、法皇はやむなく高倉天皇の第四皇子で公卿、藤原信隆の娘を生母とする尊成親王を4歳で即位させました。
こちらが後に承久の乱を引き起こす後鳥羽天皇です。以後、2年間、日本では安徳天皇と後鳥羽天皇という2人の天皇が並立する異例の事態が継続する事になります。
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安徳天皇は屋島に御所を構える
安徳天皇は平家一門とともに大宰府を経て四国の屋島に向かい、そこに御所を構えました。しかし、鎌倉で政権を樹立した源頼朝が後白河法皇の院宣に従い、弟の源範頼と源義経を平家追討軍として派遣。
手始めに京都で法皇を幽閉して逆賊となっていた木曾義仲を宇治川の戦いで撃ち破って上洛。次に一ノ谷と屋島の戦いで平家の軍勢を破りました。
特に平家水軍の重要な拠点であり安徳天皇の御所があった屋島が落ちたのは致命的で平家一門は船で長門国に逃れます。
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壇ノ浦の戦いで平家は源氏に敗れる
以後、平家は関門海峡に浮かぶ彦島を平家水軍の拠点とし巻き返しを狙いますが、寿永4年(1185年)4月、壇ノ浦の戦いで源氏の水軍に敗れました。すでに九州は義経の兄、範頼の軍勢が抑えていて、逃げ道を絶たれた平家一門は絶望し、船から身を投げて次々と死んでいきます。
平家物語によれば安徳天皇は外祖母である平時子に抱きかかえられて海に身を投じたとされ、吾妻鏡では按察使局伊勢に抱きかかえられて海中に身を投じたとされています。歴代天皇では最年少の崩御でした。
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どうして安徳天皇は死ぬ事になったのか?
しかし、現代人の目から見ると僅か8歳の子供を道連れにした平家の行動は奇異に映ります。
平安時代末期は、敵に担がれた親王や天皇でも罪は精々島流しであり、命を取るような事はありません。安徳天皇も廃位はされるでしょうし出家も強制されるかも知れませんが、殺される事は無かったでしょう。
それなのにどうして平家一門は幼い天皇を道連れにしてしまったのか?
本当の事はもちろん、平家一門にしか分かりませんが、平家は平家なりに安徳天皇の将来を気遣ったのかも知れません。
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崇徳上皇の悲惨を繰り返したくなかった?
保元元年(1156年)鳥羽天皇の崩御により崇徳上皇は天皇の地位を巡って異母弟、後白河天皇と抗争を起こします。保元の乱です。しかし、崇徳上皇は戦いに敗れ退位させられた上讃岐に流されます。そして、罪人として異母弟の後白河天皇にも冷遇され、寂しさに体調を崩し恨みから怨霊になったとする伝説も生まれました。
この保元の乱で後白河天皇を支持して勝ち組になったのが平清盛と伊勢平氏一門です。没落した崇徳上皇の惨めな様子を平家一門はよく知っていて、幼い安徳天皇の将来を悲観し生きながらえるよりも自分達と共に栄華の中で死んでいく方が幸福と考えたのかも知れません。平家は安徳天皇への愛が深いゆえに自分達亡き後の天皇の将来を思い、道連れにしてしまったのではないかと思います。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は安徳天皇の生涯と最後についてを解説しました。外祖父、平清盛の野望の道具として誕生を望まれ、誕生後は平家の権力の核として必要不可欠な存在となった安徳天皇。天皇にとっても平家一門は幼い頃からともに暮らす家族であり、離ればなれになるという事は考えにくかったかも知れません。その強い絆が壇ノ浦における安徳天皇の死に繋がったとすれば、なんともやりきれない心情は残りますね。
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