2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、鎌倉幕府において頂点にのし上がっていく北条家の物語を書いたお話ですが、ここに登場する地味な重要人物が北条政子や義時の妹、阿波局です。
北条氏が執権として頂点を極めるのに不可欠な働きをした阿波局ですが、彼女の特技は連絡網を操る事でした。
鎌倉殿の13人の主人公、北条義時がそこそこ分かる動画
この記事の目次
父は北条時政、兄は義時、姉は政子
阿波局は鎌倉幕府初代執権、北条時政の子で、生母は伊東入道の娘とされ、北条義時や北条宗時が同母兄弟で、政子とは異母姉妹です。異母姉である政子が源頼朝と結婚したので、河内源氏と縁戚となり、治承4年(1180年)11月9日、源義朝の七男で頼朝の異母弟、阿野全成と結婚します。
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夫、阿野全成について
阿波局が結婚した阿野全成は、7歳で父義朝が平治の乱に敗れて敗死した影響で醍醐寺に預けられ僧になりますが、手の付けられない悪童で悪禅師と呼ばれたほどでした。
当然、こんな性格ですから大人しく修行に励むはずもなく、以仁王が平家追討の令旨を出すと、修行僧に扮して寺を飛び出し、佐々木定綱兄弟の知遇を得て相模国で匿われ、下総国鷺沼の宿所で、兄頼朝と対面し配下となります。しかし、頼朝在世中は目立った行動もなく、駿河国阿野に領地を持ち、鎌倉幕府御家人の1人でした。
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梶原景時の乱
阿波局も阿野全成も北条家と繋がりが深く、2代将軍頼家と外戚の比企一族とは敵対する関係にありました。頼家配下には頼朝の忠実な配下として事務処理から、防諜、暗殺までこなす宿老、梶原景時がいて畠山重忠などを次々に讒言して御家人に恨まれます。
源頼朝が死去し頼家が将軍を継いで数カ月後の正治元年(1199年)10月25日、御家人の1人、結城朝光が侍所詰所で在りし日の頼朝の思い出を語り「忠臣は二君に仕えずというが自分も出家してそうするべきだったと悔やまれる。なにやら今の世は薄氷を踏むような思いだ」と述べました。この朝光の発言は侍所別当(長官)梶原景時の耳に入り、「これは将軍を謗った謀反の証である」として討伐の準備を開始します。
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阿波局連絡網が発動
御所で女官を務めていた阿波局は景時の計画を知り、景時を失脚させるチャンスとして10月27日朝光に接近「景時が先日の発言を問題視して謀反の証拠だと騒いでいます。このままだとあなたは殺されてしまいますよ」と告げ口しました。
朝光は大いに驚き、重臣の三浦義村に相談、元の侍所別当、和田義盛ら他の御家人たちに呼びかけ鶴岡八幡宮に集結し、公事奉行人中原仲業に景時の罪を糾弾する書状の作成を依頼、景時排斥に賛成する御家人66名の署名を集め連判状とし将軍側近大江広元に提出します。
広元は当初、景時の才能を惜しんで将軍へ連判状を提出する事を躊躇しますが、和田義盛に強く迫られて渋々提出。景時は申し開きする事無く鎌倉を出て相模国の一宮に追放されました。
鎌倉にあった景時屋敷は奉行に任じられた和田義盛、三浦義村に破壊され侍所別当には和田義盛が返り咲き、景時が持っていた美作国守護は義村に移っています。また景時のもう1つの守護播磨国も朝光の兄、小山朝政に与えられました。
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反頼家の御家人を集めた謀略
失意の景時は、翌年の正月に一族を引き連れて上洛する途中、駿河国の在地豪族、吉香友兼や頼朝時代から仕える御家人、飯田家義に襲撃され一族33人が殺害、あるいは自殺しています。
このあたり、どうも北条家に都合がよい感じがしますが、実際、同時代の公卿、九条兼実の日記「玉葉」では景時が追放された理由を朝光への讒言ではなく、御家人の中に頼家を廃して実朝を立てる動きがあると頼家に進言したからだとしています。
つまり、連判状に名前を連ねた66人は頼家ではなく実朝に将軍職を継がせたい一派であり、阿波局は、その連絡役として立ち回った可能性が高いでしょう。
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夫の阿野全成が頼家の命令で殺される
しかし、この辺りから将軍頼家と実朝を次の将軍にしたい御家人勢力の対立が激しくなります。阿波局の夫、阿野全成も北条家のサイドで暗躍していましたが、頼家は全成を排除しようと決意します。
建仁3年(1203年)5月19日の午前0時、頼家は先手を打って腹心武田信光を派遣し全成を謀反人として捕らえ御所に押し込めました。全成はその後、常陸国に流罪となり6月23日に頼家の命令を受けた八田知家によって誅殺。
さらに頼家は阿波局を捕らえようとし、阿波局は異母姉の政子の屋敷に逃れ、政子は引き渡しを拒否しました。阿波局の子である阿野時元も政子や時頼に匿われ、駿河国阿野荘に隠遁し助かりました。
しかし、この頼家の容赦のない動きに北条家は頼家の将軍職廃位を考えるようになります。
比企一族を滅ぼし将軍頼家を伊豆へ流す
同年7月に頼家が重病になると、頼家は出家し嫡男の一幡に将軍職を継がせようと京都に使者を出しました。覚悟を決めた北条時頼は、頼家の外戚、比企能員を自宅に呼び出し謀殺。さらに兵を集めて比企氏の屋敷を襲撃。
比企一族を滅ぼし後継者の一幡も殺害。その後病状が回復した頼家も捕らえて強制的に伊豆の修善寺に幽閉し暗殺します。こうして北条氏は3代将軍に源実朝を擁立。阿波局は実朝の乳母であり実朝生母である政子と連携して行動します。
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牧氏の乱でも政子に情報提供
元久2年(1205年)閏7月、今度は北条家の内部で騒乱が起こりました。義時や阿波局の父、時政が迎えた後妻、牧の方が時政邸で政務を執っていた実朝を暗殺し、自分の娘が嫁いでいた平賀朝雅を4代将軍にしようと画策したのです。
これは時政先妻の子である政子、義時、阿波局vs牧の方の対立となりますが、阿波局は事前に実朝が牧の方に殺される可能性がある事を政子に知らせていてクーデターが起きる前に、政子は実朝の身柄を時政邸から義時邸に移動していました。実朝暗殺に失敗した時政と牧の方は御家人の信用を失い失脚。時政は伊豆の北条氏の領地に帰って10年後に病死しています。
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義時や政子より後に死去
以後の阿波局については消息が不明です。全成との間に儲けた4男の阿野時元は3代将軍実朝が殺害された時、次期将軍を狙い謀反を起こしたとして政子に粛清されていますが、この時、阿波局は息子の助命嘆願をした様子がないのです。阿波局は、同母兄義時よりも5年、異母姉政子より2年長く生き、嘉禄3年(1227年)に亡くなっています。
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日本史ライターkawausoの独り言
北条氏の政敵梶原景時の排除や、牧の方失脚に大きな影響力を持った阿波局ですが、その報いのように夫の全成を殺され、自身も殺される窮地に立たされました。唯一残った一人息子時元も異母姉、政子の将軍家嫡流の血を絶やす方針の下で謀反の疑いを掛けられ殺されてしまいます。「人を呪わば穴二つ」の慣用句通りの生涯を送った阿波局ですが、最晩年は何を思って生きていたのでしょうか?
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