NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人第18話は「壇ノ浦で舞った男」です。
いよいよ第1話から続いた治承寿永の乱が終結し、源義経の栄光が頂点に到達します。そこで今回は有名な壇ノ浦の戦いを複合的に見て行こうと思います。
この記事の目次
制海権を失った平家が壇ノ浦で待ち受ける
元々、日宋貿易を展開するほどに海に強かった平家の水軍は源氏に勝っていました。しかし、四国の重要な拠点である屋島を義経に攻め落とされた事で摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍が源氏に寝返ります。
それでも平家は長門国の壇ノ浦赤間関に浮かぶ彦島を水軍の拠点とし、西上する源義経とすでに九州に渡海して豊前にいる源範頼軍に最期の抵抗を試みました。
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源義経と梶原景時の先陣争い
平家物語には、壇ノ浦の戦いの先陣を巡り、義経と梶原景時が争ったと記述されます。景時が先陣を願い出ると義経は「俺がいなければ許してやったがな」と高笑いし自ら先陣を切ると告げます。
景時が「総大将が先陣とは聞いた事もない」と反論すると、義経は
「貴様は何を勘違いしている?総大将は鎌倉殿であり、俺はお前達と変わらない御家人に過ぎない。私は戦争の指揮を命じられているだけで、先陣も仕事のウチだ」と言い返します。
これで反論を封じられた景時が悔しまぎれに「あなたには生まれつき武士の上に立つ器量がない」と毒を吐くと義経も「貴様は日本一のバカだな」と刀を抜いて応酬。景時の郎党と義経の郎党との間で小競り合いが起きたという事です。
この時には、鎌倉殿の13人でも仲裁ばかりしている土肥実平と三浦義澄が義経と景時の間に入って手を擦り合わせ「勘弁してよ~これで平家が勢いづいたらどうするのよ~?それに鎌倉殿がこの事を聞いたらどうなると思ってんの?俺達首チョンパよぉ~」と必死で頼んで収めています。
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源平の兵力
吾妻鏡の記述では、平家は松浦党100余艘、山鹿秀遠が300余艘、平家一門100余艘で合計500艘。それに対して源氏は渡辺水軍、河野水軍、熊野水軍など合計で840艘だったようで、軍船の数では源氏が平家を大きく上回っていました。
壇ノ浦の戦いで平家の指揮を執ったのは兄と違い名将として名高い平知盛でした。
平家物語によれば知盛は通常なら安徳天皇や平家本営が置かれる大型の唐船に兵士を潜ませ、安徳天皇と三種の神器を狙って殺到する義経軍の兵船を引き寄せて包囲する作戦を立てています。1185年4月25日、840艘で攻め寄せる義経軍に対し、平知盛率いる平家水軍も出撃、関門海峡壇ノ浦で両軍は激突します。
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実は源範頼軍の活躍が大きかった
源義経の活躍ばかりが強調される壇ノ浦の戦いですが、源範頼軍の活躍も忘れてはいけません。範頼は3万余騎をもって陸地に布陣して平氏が九州に逃げる事を阻止し、岸から遠矢を放って義経を援護しました。平家物語によると、オヒゲの和田義盛は馬に乗って渚から沖に向け遠矢を二町から三町も射かけています。
一町は109メートルで、三町なら327メートル飛んだ事になりますが、壇ノ浦の最も狭い部分は650メートルしかなく、和田義盛の矢は海峡の真ん中あたりまで届いた事になります。
また、範頼軍により退路を断たれている事や補給を絶たれている事が平家に与えた影響は大きく、平家は矢の補給も満足に出来ず手持ちの矢が尽きると一方的に源氏に射られるだけになり総崩れになったと考えられています。
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義経は非戦闘員を射る卑怯者だった?
さて、関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平家軍はこれを巧みに利用して速い潮の流れに乗って矢を射かけ海戦に慣れない坂東武者の義経軍を翻弄し、義経軍は満珠島や干珠島にまで追いやられたとされています。
ここで不利を悟った義経が敵船の水手や舵取を射るように命じたという話があります。ドラマや小説などでは、この時代の海戦では非戦闘員である水手や舵取を射るのは戦の作法に反する行為だったが、義経は敢えて掟破りをして勝利したと描写される事が多いようです。
しかし、平家物語には義経が水手や舵取の非戦闘員を殺すように命じた場面はなく、もはや大勢が決し安徳天皇が入水した後で源氏の兵が平家の船に乗り移り水手や舵取を射殺し斬り殺したと描かれています。
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阿波重能の裏切りはあったのか?
また、平家物語では平家の敗因として阿波重能の水軍300艘が開戦まもなく寝返り、唐船が囮であると源氏に大声で知らせたので知盛の計略が失敗し敗北は決定的になったとされますが、吾妻鏡によると阿波重能は合戦後に捕虜になっていて真偽は不明です。
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潮の流れが反転し義経の攻勢に敗れる平家
やがて潮の流れが反転し義経は乗じて猛攻撃を仕掛けます。単純に潮の流れだけではなく、優勢に矢を放っていた平家軍の矢が尽きるなど源範頼に九州を封鎖された影響が出たと考えられます。敗北を悟った平家の人々は「生きて虜囚の辱めを受けず」と多くが自殺して身を処す事になりました。
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平家の人々の最期
例えば、壇ノ浦の戦いで平家の総指揮を執った平知盛は建礼門院(平徳子)や二位尼(清盛の継室:平時子)が乗る女船に乗り移ると「見苦しいモノを掃除しましょう」と自ら掃除を始めます。
そして、戦がどうなったかを口々に聞く女官には、「もうじき都では珍しき荒々しい東国の男が見物できます」と冗談交じりで言い、女官をパニックに陥らせています。
二位尼は知盛の言葉で敗北を悟ると、幼い安徳天皇を抱き寄せ、3種の神器である天叢雲剣を腰に差し八尺瓊勾玉を抱え実の孫である8歳の安徳天皇に「弥陀の浄土に参りましょう、波の下にも都がございますよ」と答え天皇を抱えて海に飛び込んだとされます。
平家の諸将も覚悟を決め、平教盛は鎧を着て海に飛び込み、平経盛は陸に上がって出家した上で海に飛び込んで水死。平資盛や有盛、行盛も海に飛び込んで果てました。
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捕まってしまった総大将 平宗盛
平家の棟梁である宗盛は海に飛び込む決意が出来ず、嫡男、清宗と右往左往していた所を見かねた平家の武士に海に突き落とされたそうです。嫡男の清宗もそれを見て海に飛び込むものの、2人とも鎧をつけていなかったのと水泳が上手であったために沈む事が出来ません。
宗盛は息子が生きている間は生きようと思い、清宗は父が生きている間は死ぬことは出来ぬと命を惜しんでいる間に伊勢三郎義盛の軍船に捕らえられました。この為、平宗盛は自決もできなかった無能な弱虫大将として、その後も芳しくない評価を受ける事になります。
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往生際悪く奮闘した平教経
全体的に往生際が良すぎる平家一門で唯一、往生際悪く戦い続けたのが平教経でした。教経は平家一の怪力の持ち主で最強の武人であり、総崩れになった平家の中で暴れ足りず坂東武者を次々に迎え撃ち血祭りにあげます。
それを知った知盛が
「もう当家は滅亡と相成った。これ以上人を殺すのは無益であるから潔くせよ」と伝令を出すと、教経は「では、義経を道連れに海に飛び込もう」と源氏の船を飛び回り、ついに義経を見つけると小長刀を持って飛び掛かります。
義経は教経が剛の者と知っていて戦おうとせず船から船に飛び移り、八艘跳びで逃げていきました。追う事を諦めた教経は大力で知られる安芸太郎が仲間二人と飛び掛かるのを幸いに一人を海に蹴落とし、2人を両脇に抱えて碇の代わりとし海に飛び込んで水死しました。
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見るべきものは全て見た
平教経の死を知った知盛は「見る程のモノは全て見た」と呟くと、鎧を二領着こんで、かねてから死ぬときは共にと約束していた乳兄弟、平家長と共に海に飛び込みます。こうして、平治の乱から20年栄華を極めた平家一門は海の藻屑と消えてしまったのです。
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失われた安徳天皇と天叢雲剣
勝利した義経ですが、後白河法皇や源頼朝から必ず奪還するように命じられた安徳天皇の身柄と天叢雲剣については奪い返す事が出来ませんでした。平家の人々が海に身を投げた最大の要因は逃げ道である豊前を源範頼に抑えられ、もう逃げ道がないという絶望感によるものと考えられます。
源範頼は、必ず押さえるように頼朝に命じられた安徳天皇の身柄と天叢雲剣を失った事に愕然とし自らその事実を頼朝に報告できず、大江広元を通して報告した程でした。
一方で義経は、神器を失った事や安徳天皇を死なせた事を特に悔いている様子もなく、凱旋将軍として後白河法皇から官途を授けられています。こういう義経の鈍感な部分も頼朝を怒らせ、また不信感を抱かせる事に繋がり、しばらく後の義経追討へと繋がっていく事になりました。
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日本史ライターkawausoのまとめ
5月8日はいよいよ、鎌倉殿の13人の見せ場のひとつ、壇ノ浦の戦いです。これまで戦闘シーンは少なかった鎌倉殿ですが、今回は丸々45分を壇ノ浦の戦いに割くようですから見ごたえがありそうですね。
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