畠山重忠は鎌倉幕府の有力な御家人です。
頼朝挙兵時には敵対して平家についていましたが、後に臣従し治承・寿永の乱で中心的な働きをする知勇兼備の武将でした。しかし、その後、所領である武蔵の支配を巡り北条時政と反目し讒言により悲劇の最後を迎えます。今回は清廉潔白な人柄で「坂東武者の鑑」と称えられた畠山重忠を紹介しましょう。
畠山重忠の乱とは?
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畠山重忠の乱を分かりやすく時系列で徹底解説【鎌倉殿の13人】
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この記事の目次
坂東八平氏の一角、秩父氏に生まれる
畠山氏は坂東八平氏の一角、秩父氏の一族で武蔵国男衾郡畠山郷を領有していました。同族には江戸氏、河越氏、豊島氏などがあり、河内源氏の家人として百年以上も主従関係にあります。父の重能は平治の乱で源義朝が敗死すると平家に下り、以後、20年に渡り清盛に仕える事になりました。
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平家に従い三浦一族の衣笠城を陥落
治承4年(1180年)8月17日に義朝の三男、源頼朝が以仁王の令旨を奉じて伊豆で挙兵します。その頃、畠山氏の当主、重能は大番役として京都にいたので重忠が一族を率いて頼朝を討伐に向かいました。
頼朝は伊豆国衙を奇襲で占領したものの、味方が少ないので、相模の三浦一族と合流しようと酒匂川へ向かう途中、石橋山で大庭景親が率いる3000の平家軍の夜襲を受けて壊滅します。合流しようと酒匂川まで来ていた三浦一族ですが、大雨で川が増水して渡れず、その内に頼朝敗北を知って衣笠城へ帰還します。その途中、由比ヶ浜で畠山重忠軍と遭遇しました。
重忠の母方の祖父は三浦氏の長老三浦義明だったので、この場は穏便に事を収めようとしますが、小競り合いから本格的合戦になり死傷者が出て、両軍は痛み分けで引き上げます。
重忠はその後、河越重頼、江戸重長の軍勢と合流し三浦氏の本拠地衣笠城を攻めます。長老、三浦義明は1人で城に残り一族に城を捨てて頼朝と合流せよと命じて奮戦。重忠は義明を討ち取りました。
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長井の渡しで頼朝に降伏し御家人へ
逃げのびた頼朝は海上で三浦一族と合流、安房で再挙兵し千葉常胤、上総広常を支配下に加えて2万騎の大軍に膨れ上がり房総半島を経由して武蔵国に入り畠山重忠は抵抗する事なく、河越長頼や江戸重長と長井渡しで頼朝に降伏。
頼朝軍の先陣を務めて鎌倉に入城し正式に御家人となりました。この後、重忠は北条時政の娘を妻に迎えています。
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宇治・瀬田の戦い、一ノ谷で活躍
寿永2年(1183年)平家を都落ちさせて京都を支配していた源義仲と頼朝が対立。頼朝は弟の範頼と義経に6万騎を与えて近江国に進出させ、寿永3年(1184年)正月に宇治・瀬田の戦いが起こります。
重忠は搦手を担当した義経の軍勢に配属され500騎を率いて、馬を何頭も並べて馬筏を組み、宇治川を推し渡りますが、途中で馬を射られて徒歩になり、同じく馬を射られて流れてきた大串重親が重忠にしがみついてきて身動きが取れなくなります。
怒った重忠が怪力で大串をぶん投げると、これが対岸まで届き大串は一番乗りの名乗りを挙げ、敵味方に失笑されたという話があります。義仲を破った義経軍はそのまま上洛し、重忠は義経等とともに後白河法皇に御簾越しに拝謁して名乗りを挙げました。
寿永3年2月、範頼と義経は摂津国福原にまで勢力を回復していた平家を討つべく京都を出発。重忠は大手方の範頼の側に属し一ノ谷の戦いで活躍しました。
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源平盛衰記では馬を担いで鵯越の逆落としをおこなう
平家物語での重忠は義経の搦手に属したと書かれており、源平盛衰記ではこれを脚色して鵯越の逆落としの場面で「馬が脚を折ったら可哀想」と怪力で愛馬を背負い自分の足で急坂を駆け降りる重忠の話を書いています。
ギャグみたいな話ですがあり得ないわけではありません。というのも、鎌倉時代の馬は現在の木曽馬程度の大きさで体高130センチ、体重350キロほどです。トレーニングを積んだ重量挙げの選手なら500キロの重さを背負う事が出来るそうですから、怪力無双で知られた重忠が350キロの木曽馬を背負うのは不可能ではないのです。
もっとも出来るという事と実際にやったかどうかは別問題なので誤解のないように
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部下の不始末を恥じ、餓死しようとして頼朝に止められる
その後、平家は壇ノ浦で滅び、重忠は鎌倉に帰還する事になりますが、途中、義経が頼朝に反旗を翻して失敗し逃亡。義経の舅だった河越重頼は連座して誅殺され重頼が持っていた武蔵留守所惣検校職を重忠が継承します。
文治3年(1187年)重忠が地頭に任じられた伊勢国沼田御厨で、彼の代官が狼藉を働き、重忠は任命責任を問われて千葉胤正に囚人として預けられます。重忠は事件を恥じて食事を摂らず餓死しようとしますが、頼朝は重忠の武勇を惜しんで赦免しました。
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梶原景時の難癖を潔い態度で論破
重忠が一族を率いて武蔵国菅谷館に戻ると、侍所所司の梶原景時が怪しんで謀反の疑いありと讒言します。頼朝は重臣を集めて重忠を討つべきか審議しますが、小山朝政が重忠を弁護し、申し開きを聴くために下河辺行平が使者として派遣されます。
事情を聴いた重忠は哀しみ憤って自害しようとし、びっくりした行平は自殺を思いとどまらせ鎌倉で弁明するように促しました。査問官になった景時が重忠に起請文を求めると重忠は「私に二心はなく、言葉と心に違いはないから起請文を出す必要はない」と言い張ります。
景時がこれを頼朝に取り次ぐと頼朝は何も言わずに重忠と行平を召して褒美を与え帰しました。
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奥州合戦で先陣を務める
文治5年(1189年)重忠は奥州合戦でまたしても先陣を務めます。
阿津賀志山の戦いで三浦義村、葛西重清が陣を抜け出し抜け駆けをしようとし、重忠の郎党がそれを知って重忠に知らせると「先陣を賜っている以上は、功績はすべて自分のものであるから、抜け駆けをしてまで武功を挙げたいと考えている者達を止めるのは士気を下げ、戦術に合わないだろう」と悠然として許しました。
奥州合戦は鎌倉軍の勝利に終わり奥州藤原氏は滅亡します。
この後、藤原泰衡に仕えて捕縛された由利八郎が梶原景時に取り調べを受けますが、勝者として横暴な態度を取る景時に憤慨「貴様には何もしゃべってやらん」と頑として口をきかなくなります。頼朝が重忠に取り調べを命じると重忠は由利八郎を勇者として遇し、これに感激した八郎は取り調べに素直に応じ「先ほどの男とは雲泥の違いである」と語ったそうです。
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梶原景時弾劾の連判状に署名
建久3年(1190年)頼朝が上洛した時には、重忠は右近衛大将拝賀の随兵7名に北条義時、小山朝政、和田義盛、梶原景時、土肥実平、比企能員等と共に選ばれ名実ともに鎌倉幕府の功臣の地位に就きます。
正治元年(1199年)正月、頼朝が死去。この時重忠は子孫を守護するように頼朝に遺言を授けました。同年10月、かつて重忠に難癖をつけた梶原景時が、重臣の結城朝光が二代将軍頼家を誹謗中傷したと讒言。
これを知った三浦義村、和田義盛などが怒り、諸将66名による景時弾劾の連判状が作られますが重忠も署名しています。この御家人の怒りの背景には過去に景時が重忠を陥れようとした事への御家人の不満もあったようです。
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頼朝の遺言に反し北条氏について比企一族を滅亡させる
清廉潔白イメージの重忠ですが、知勇兼備であり、決して直情バカではありませんでした。頼朝に子孫を守護せよと命じられた重忠ですが、頼家の後ろ盾となる比企一族と北条一族との抗争では北条氏を支持し、比企一族を滅ぼすのに加担しています。
頼家は北条時政により伊豆修善寺に強制的に隠居させられた上殺害、3代将軍には北条政子が産んだ実朝がつき、鎌倉幕府の実権は北条氏に握られました。
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時政と牧の方に因縁をつけられ滅亡する
ここまで仁義なき鎌倉幕府の抗争を勝ち抜いてきた重忠ですが、今度は重忠が北条時政と後妻の牧の方に目をつけられる事になります。
元久元年(1204年)11月重忠の子、重保が北条時政の後妻、牧の方の娘婿である平賀朝雅と酒の席で口論になりました。その場は周囲が宥めて治まりますが、それから半年もしてから朝雅は重忠が謀反を企んでいると牧の方へ讒言。
牧の方に惚れている時政は言うままに息子の義時と時房に重忠を討とうと思うがどうだと諮問します。義時も時房も「重忠は忠義の人で謀反などありえない」と反対しますが、牧の方に押し切られました。
元久2年6月22日、鎌倉にいた重保は謀殺、同時に重忠の下に「鎌倉に異変があったので至急参上せよ」と虚偽の命令が出されます。130騎を率いて急いで駆け付けた重忠は途中の武蔵二俣川で、北条義時を総大将とする数万騎の大軍と遭遇します。
すべてを悟った重忠ですが無実で捕縛される事を望まず、僅かな兵で立ち向かい愛甲季隆に射られて討ち死にしました。
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重忠を死に追いやった時政と牧の方も失脚へ
しかし、明らかに無実の重忠を討った事で時政は御家人の支持を失います。直後に起きた牧氏の乱では将軍実朝を廃して娘婿の平賀朝雅を立てようとする時政と牧の方に義時と政子が反対、御家人の支持を集めた義時が時政を伊豆に隠居させる牧氏事件が起こります。
梶原景時の乱でもそうでしたが、重忠の人望は鎌倉の御家人には絶大であり、いかに時政でも、それを無視すれば御家人の支持を得られませんでした。
日本史ライターkawausoの独り言
畠山重忠の乱の背景には武蔵武士団の棟梁である畠山氏と武蔵守である平賀朝雅を後見する北条氏による武蔵支配を巡る衝突がありました。特に牧の方は、一人息子の北条政範を15歳で失い、老いた時政の将来を不安視し、娘婿の平賀朝雅の地位を引き上げて自分の地位を安泰にしたいという焦りがあったようです。
また、継母である牧の方の勢力拡大を警戒する時政先妻の子である、義時や政子との骨肉の対立もあったようです。
重忠は自らは政争に積極的に関与しませんでしたが、長年の功績で高くなり過ぎた地位と領地が結果として北条氏の邪魔となり排除されてしまったのです。関東武士の鑑と称えられ頼朝にも信任された重忠でしたが、その名声が自分の首を絞めてしまいました。
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