ほのぼの日本史ご当地戦国特集、今回は北陸地方の福井県を取り上げます。
福井県は、日本の中部地方に位置し山中峠、木ノ芽峠、栃ノ木峠を通る稜線を境界として北の嶺北(旧越前国)と南の嶺南(旧若狭国)より構成されています。
応仁の乱後は下克上を背景に、越前では朝倉氏が若狭では武田氏が登場し生き残りをかけて鎬を削りました。それでは、波乱万丈な福井県の歴史をご覧ください。
この記事の目次
福井県の先史時代
福井県内には遺跡が各地に点在しており、約1万5000年前から人が住んでいたと推測されています。当時の遺跡としては三国町の西下向、雄島、馬コロバシ遺跡や永平寺町の木橋遺跡があり、南幅遺跡等からはナイフ型石器や掻器などの多数の石器が出土しました。
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福井県の縄文時代
若狭町の鳥浜貝塚からは草創期の縄文土器をはじめ竪穴式住居跡や、海に出るための丸木舟、弓矢、土器に模様を付けるための縄などが出土していて、土器の形式には飛騨や近畿の集落との共通点もある事から古くから人的交流が盛んだったと考えられています。
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福井県の弥生時代
福井県には弥生時代前期頃稲作が伝わり、出土土器もそれに併せて変化しています。
稲作以外でも、金属器や玉、布の生産がおこなわれていた模様で、金属器については銅鐸が出土しています。嶺北は日本海側で出土した銅鐸の最北端でもあります。弥生時代中頃になると、稲作の影響で貧富の差が拡大し首長が誕生して首長の墓である古墳が各地に登場します。
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福井県の古墳時代
福井県では4世紀初頭になると、まず嶺北で前方後円墳が造られ始めます。
4世紀も中期に入ると、九頭竜川中流域で大規模な前方後円墳が次々と造営され、4世紀末の手繰ケ城山古墳、4世紀後半から5世紀前半の六呂瀬山古墳群などは北陸地方最大級の規模であり、当時の福井県エリアが北陸の中心であった様子が窺えます。
嶺南でも少し遅れて5世紀に入ると主に若狭町付近で前方後円墳の造営が始まります。
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四国造が置かれる
5世紀後半から6世紀になると若狭、高志、三国、角鹿の四国造が分立します。
三国国造があった地域は、継体天皇がその即位まで過ごしたとされ、現在の嶺北出身である継体天皇がヤマトの大王として迎え入れられたことを契機としヤマトの勢力と福井県エリアの豪族勢力が合体しました。
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塩と海産物の国 若狭国
7世紀後半頃、律令制の導入に伴い「若狭国」が成立。少し遅れて7世紀末には「越前国」が成立します。
若狭国は若狭湾で精製した塩を調として都に納めていて、現在も製塩遺跡が残っています。また調とは別に贄と呼ばれる海産物を直接天皇に貢いだことが平城京の木簡や延喜式から明らかになりました。若狭国は天皇の食卓を飾る国だったのです。
天平21年(749年)には、東大寺が越前国の豪族から土地の寄進を受け、また墾田を買収して福井平野に多くの荘園を獲得しました。初期荘園です
8世紀には、大和朝廷と渤海との交流が盛んになり、若狭国や越前国は渤海使の来航拠点として栄えます。しかし、8世紀後半には渤海使は低調になり、交易が中心になりました。
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福井県の白山信仰
10世紀に入ると越前国の東大寺領荘園は荒廃、代わって皇室領、摂関家の荘園が中心になります。また、この時代には白山信仰が盛んになります。
白山信仰とは、加賀国、越前国、美濃国にまたがる白山に関わる山岳信仰で、白山から流れる豊富な水が周囲の田畑を潤し豊かな実りを約束していた事から白山を神の山として崇めて、毎年の豊作を祈願する信仰で、白山は奈良時代に泰澄が登頂して開基しました。
白山信仰は神仏習合によって仏教に包摂されて盛んとなり、11世紀末にはその拠点である平泉寺(勝山市)が延暦寺の末寺として信仰を集めます。
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福井県の源平合戦
10世紀末になると越前には、宋人が来航、民間交易が行われるようになります。特に院政期以降、敦賀津などを中心に貿易が盛んになりました。
11世紀末より福井県エリアは主に院分国となり、保元・平治の乱以降は平氏の知行国となりますが、治承・寿永の乱で越前国は斎藤氏など多くの武士が信濃源氏、木曾義仲に味方します。
しかし、義仲没落後に頼朝に乗り換えられた越前・若狭の武士団はいなかったようで、鎌倉幕府の下では地頭に任命される越前、若狭の御家人は見られません。
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福井県の鎌倉時代
鎌倉時代になると、東国御家人の島津氏や後藤氏等が越前や若狭の守護職に任ぜられます。越前・若狭では、廻船業が発達、敦賀津や小浜津、三国湊などが整備され海上交易が盛んになり、年貢を京に輸送するための拠点としても機能しました。
寛元元年(1243年)には、曹洞宗の開祖道元が越前国志比庄にある吉峰寺に入り、翌年に大佛寺(後の永平寺)を創建、13世紀末以降は高田系浄土真宗が越前国北部を中心に拡大し、後に一向一揆の拠点となる下地が築かれます。
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南北朝期の越前国
1336年、足利尊氏の入京により恒良親王、尊良親王を奉じて北陸落ちした新田義貞が金ケ崎城に入りますが、越前国守護斯波高経の軍勢により翌年落城。義貞は脱出しますが、1338年に越前国藤島燈明寺畷にて戦死します。
この後も越前国内では、戦乱が続き1341年にようやく北朝方が平定。北朝方の斯波氏が越前国の守護大名となりますが、実質的に越前を統治していたのは守護代甲斐氏でした。
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南北朝期の若狭国
南北朝時代の若狭国では、守護の交代が頻繁でしたが、1366年一色氏が守護となり、国人一揆を抑えて若狭を支配します。
しかし、永享12年(1440年)一色氏の勢力拡大を恐れた将軍足利義教は武田氏を守護に任命、武田氏は一色氏残党や一揆を抑え、戦国時代後期まで若狭を支配します。
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応仁の乱後、越前で朝倉氏が台頭
15世紀後半、越前国内では斯波氏と甲斐氏の対立が深まり国内で内乱が起きます。
最終的には幕府の支援を受け甲斐氏が勝利しますが、応仁の乱のどさくさで朝倉孝景が台頭し、甲斐氏に代わって越前国を掌握しました。こうして朝倉氏は戦国大名として越前で台頭していく事になります。
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福井県の戦国時代
文明3年(1471年)、本願寺8世蓮如が越前吉崎に入り吉崎御坊を建立。北陸地方における本願寺系浄土真宗の布教拠点が確立し、その後、越前国内で一向一揆が頻発する事になります。
永正3年(1506年)加賀国から本願寺門徒らが越前へ侵入します。しかし、朝倉教景指揮する朝倉方はこれを九頭竜川で迎え撃ち勝利しました。以後、朝倉氏は本願寺系浄土真宗を禁圧。そのため、多くの本願寺門徒や僧は加賀国に逃れ、度々越前国に侵入を繰り返します。
16世紀以降、若狭国では内乱が相次ぎ武田氏は弱体化、これを受けて朝倉氏が武田氏支援の名目で若狭国に軍事介入するようになりました。
永禄の政変で兄足利義輝を三好氏に殺害された弟の足利義秋(義昭)は、上洛を果たすため、永禄9年(1566年)に武田氏を頼って若狭国に入りますが、内紛収拾で精一杯の武田氏に上洛をする力はありません。
失望した義秋は永禄10年(1567年)に朝倉義景を頼って越前国に入りました。しかし朝倉義景は自分が上洛する事で周辺勢力との抗争が起きる事を警戒し上洛を渋り、義昭を歓待漬けにするのみでした。
永禄11年、義景に愛想が尽きた義昭は織田信長を頼って美濃国に出国しました。こうして越前朝倉氏は上洛のチャンスを逃す事になりますが、しかし、上洛したからとて、信長のような果てしない周辺勢力との戦いが待っているのですから、それで朝倉氏が躍進し天下人になれたかどうかは分かりません。
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若狭武田氏の最後
永禄11年(1568年)朝倉義景が弱体化した若狭に侵攻します。当時の当主は若年の武田元明でした。
応仁の乱で東軍副将を務めた若狭武田氏はすでに衰退し、家臣を統制する力さえなく、若狭守護代、内藤氏の内藤筑前守は若狭天ヶ城と手筒山城(天筒山)に割拠。有力被官の逸見昌経は高浜城、粟屋勝久は国吉城、熊谷直澄は大倉見城にそれぞれ割拠し、武田氏の支配から離れ独立状態でした。
朝倉勢は国吉城、手筒山城などを陥落させ、朝倉景恍、半田又八郎らが兵を率いて後瀬山城を囲むと、当主元明は自害しようとします。
しかし朝倉氏とは親族なので助命され、一乗谷朝倉館に強制的に移住させられます。こうして、越前朝倉氏は元明を傀儡とし若狭を間接支配、ここで現在の福井県の領域は越前朝倉氏の支配下に入りました。
元亀元年(1570年)4月、織田信長が突如として越前に侵攻。若狭の粟屋勝久や松宮玄蕃らは信長に内応し越前口に案内し若狭は陥落します。信長は重臣丹羽長秀を若狭半国守護としますが、浅井氏の突然の離反により撤退しました。
実は当初信長は、武田元明を若狭国主として認める方向でしたが、元明自身は越前国内に留め置かれたままで、事実上不可能でした。天正元年(1573年)8月、朝倉氏が織田家に滅ぼされると、武田元明は解放されますが、若狭一国は丹羽長秀に任せられ、若狭衆は長秀の与力とされました。
9月に国許に戻った元明ですが長秀の入った本拠地後瀬山城を避け、同じ遠敷郡小浜にある若狭神宮寺桜本坊に入り謹慎します。そして度々、信長に朝倉氏の支配下にあり行動を起こせなかった事を詫びますが、信長は黙殺していたようです。
信長からすれば、自分の国を奪回する意気地もないのに、織田家が血を流して若狭国を取り返したら守護としてヌケヌケと返り咲こうとする武田元明が許せなかったのでしょう。
しかし、その後、信長の勘気も幾分か和らいだようで、天正9年(1581年)3月、大飯郡高浜城8000石の領主である逸見昌経が死去した時、信長はこれを跡継ぎなしと見做して逸見氏の所領を没収、その一部大飯郡佐分利の石山城3000石を元明に与えました。
こうして無禄を脱した元明は若狭衆の1人として長秀の与力へと転落します。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が横死すると元明にチャンスが到来します。元明は若狭国衆を糾合して蜂起、明智光秀や義兄京極高次と通じて、近江へ侵攻して丹羽長秀の本城・佐和山城を陥落させました。
元明は光秀が勝利すれば、自分は実力で若狭守護に返り咲けると思ったのでしょう。
しかし、山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗死すると状況は一転、7月19日、恭順の意を示そうとした元明は長秀のいる近江海津に招かれ海津の宝幢院で謀殺されます。自害したとする説もあります。享年は21とも31とも言われハッキリしません。こうして戦国大名、若狭武田氏は滅亡しました。
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越前朝倉氏の戦い
1570年9月、織田信長が大坂、野田・福島で三好三人衆や本願寺と交戦している最中、突如義景が挙兵、浅井・朝倉連合軍が3万の軍勢で京に攻め上り、京の口比叡山に築城します。併せて六角氏の挙兵などもあり信長は窮地に陥りますが、この時は将軍義昭の仲介で講和が成立しました。
その後、信長は義昭と不和になり、間隙を突いて甲斐の武田信玄が上洛軍を起こし、越前朝倉氏と織田軍を挟み撃ちにしようと画策しますが、信玄は上洛途中病により陣没。信玄の死で窮地を脱した信長は、自分を苦しめた朝倉義景の討伐を開始します。
手始めに北近江の浅井長政を滅ぼした信長は、1573年8月、返す刀で刀禰坂の戦いを経て朝倉氏の本拠地である越前国一乗谷に侵攻します。義景は大野に逃れるも、一門、朝倉景鏡の裏切りにより屋敷を包囲され自害。朝倉氏は滅亡しました。
越前の狂犬、富田長繁の奮闘
織田信長は朝倉家の旧臣、桂田長俊(前波吉継)を越前守護代に任命し、富田長繁を府中領主に任命します。ところがこの2人仲良く朝倉家を裏切った割に仲が悪く双方が信長に相手を讒言する有様でした。
天正2年(1574年)富田長繁は桂田の悪政に不満を持つ勢力を糾合して土一揆を起こします。一揆勢は33000人に膨れ上がり、南北から一乗谷に侵攻すると守護代、桂田長俊を殺害しました。これに乗じて加賀の本願寺勢も蜂起して越前に侵入、武将や国人、平泉寺などを襲撃し越前国を本願寺支配下に置きます。
一時は越前国を支配した富田長繁ですが、自分勝手な行動から人望を失い、本願寺門徒と敵対する真宗三門徒派を永世3000石の褒賞で釣りあげ、一向一揆と決死の抗争を繰り返した挙句、配下の小林吉隆に背後から鉄砲で撃たれて戦死します。享年24。越前の狂犬と呼ばれた男の最後でした。
天正3年(1575年)8月信長は、越前国に再侵攻して本願寺門徒や僧を鎮圧して支配を回復。柴田勝家に越前北ノ庄をはじめ越前八郡、金森長近らに越前大野郡、不破光治、佐々成政、前田利家(府中三人衆)に越前府中二郡を与えて分割統治しました。
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丹羽長秀、蜂屋頼隆、金森長近の分割統治
天正11年(1583年)信長亡き後に開かれた清洲会議で光秀を討った羽柴秀吉と、織田家の宿老、柴田勝家の対立が深まり、賤ヶ岳の戦いに発展します。
戦いには秀吉が勝利し勝家の居城である越前北ノ庄城は陥落し勝家は自害しました。戦後処理で秀吉は、丹羽長秀に越前の大半を与え、蜂屋頼隆に敦賀郡、金森長近に引き続き大野郡を統治させます。天正13年(1585年)丹羽長秀が死去。息子の丹羽長重が越前と加賀123万石を相続し本拠地を北ノ庄城に起きます、
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支配者が変わり続ける越前
しかし、丹羽長重は、佐々成政討伐の時、家臣に内応者が出たとして秀吉に加賀国と越前国を取り上げられ加賀松任4万石に格下げされました。これは言いがかりと見られ、強くなりすぎた丹羽氏を弱体化させる狙いがあったようです。
その後、越前は堀秀政が北ノ庄城を本拠地として統治、次に息子の堀秀治が継承します。この堀秀治は文禄の役と伏見城築城で功績を挙げ、北ノ庄から越後春日山30万石に転封となり、繰り上げで青木一矩が大野城8万石から越前府中城主となり20万石で越前を支配しますが、関ケ原で西軍についたために越前北ノ庄8万石を没収されました。
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やはり支配者が変わる若狭国
若狭国では、丹羽長秀が越前に転封になったあと、木村隼人佐らが治めていましたが、天正13年(1585年)丹羽長重の領地となり、1587年には浅野長政が統治しますが、こちらも甲斐国府中21万5千石に栄転し領主交代が続きます。
江戸時代の越前国
関ヶ原の戦いの後、家康は息子結城秀康に越前一国および下野国結城郡75万石を与えます。
しかし、結城秀康は梅毒により若くして死去、息子の松平忠直が相続しますが、大坂の陣での功績を将軍秀忠に認められない事に不満を持って乱暴狼藉に及び、秀忠の命令で豊後国荻原に島流しとされます。
越前国は、結城秀康の次男、越後高田藩主松平忠昌が幕府の命令で相続。3代目越前北ノ庄藩主となります。忠昌は北ノ庄城に敗北の「北」が入っていて縁起が悪いとして、城内にあった福居井戸から名前を取り福居城に改名し、やがてこれが福井となり、現在の福井県の由来となりました。
忠昌の時代に福井藩は75万石から50万石に規模を縮小、残りの余地に丸岡藩4万6千石、大野藩5万石、勝山藩3万石、木本藩2万5千石が設置されます。
また、敦賀郡はいったん幕府領となった後、小浜藩領となって、後に小浜藩支藩の敦賀藩などが成立するなど福井藩から切り離されました。
江戸時代も越前福井藩は波乱万丈の乱高下を繰り返します。6代藩主の松平綱昌が突如乱心して側近を斬り、領内の飢饉にも対応できず、しまいには登城命令まで無視したので狂気を理由に謹慎を申し付けられ石高を半減されたのです。幕府は前の藩主を返り咲きで藩主に据えますが、家格は親藩から外様大名に降格。
石高も52万五千石を頂点に45万石、7万五千石、5万石と衰微の一途を辿りますが、家康の子、結城秀康の藩を潰す事はできないと幕府も大目に見続け、ようやく9代藩主松平宗昌から持ち直して30万石となり、幕末までに32万石まで回復しました。
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江戸時代の若狭国
若狭国は関ヶ原の戦いの軍功で京極高次に丸々一国が与えられます。これが小浜藩8万5千石です。寛永11年(1634年)小浜藩2代藩主京極忠高は男子がないまま45歳で死去し小浜藩は断絶。
幕府は幕府老中の酒井忠勝を小浜藩領主としその後、廃藩置県まで酒井家が若狭を統治しました。
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年貢米の中継地として賑わう
江戸時代前期、小浜や敦賀の港は年貢米を北国から回航する中継地として多用され繁栄。そして、江戸時代中頃以降になると、北前船が三国や敦賀に寄港し蝦夷地や大坂を連結。小浜の古河や越前河野浦の右近など北前船主が活躍しました。
安永3年(1774年)小浜藩医、杉田玄白と中川淳庵が前野良沢らとともに「ターヘル・アナトミア」を翻訳した「解体新書」を刊行するなど豊かさを背景に医学や文化的事業が発展します。
幕末の越前では、福井藩主松平春嶽や橋本左内、元小浜藩士の梅田雲浜らが明治維新にかけて活躍し、また越前国内の丸岡藩や小浜藩などは、海上交通の要衝だった小浜湾内に台場を建設し大砲を備え、西洋列強の軍艦侵入に備えていました。
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明治維新後
戊辰戦争が起きると、福井藩は薩長主導の明治新政府に加わり江戸無血開城後、上野の寛永寺一帯に立てこもった彰義隊の討伐に参戦します。
その後越前藩は、廃藩置県に先立つ明治3年12月26日に本保県が設置され消滅。明治4年7月14日の廃藩置県によって領内の丸岡藩、福井藩、勝山藩、大野藩、鯖江藩、小浜藩の各藩が廃止になり、現在の福井県域に7つの県が設置されました。
明治4年11月20日には、福井県と敦賀県の2県が置かれ同年12月20日には福井県が足羽県に改称。さらに明治6年1月14日足羽県が敦賀県に編入され、ほぼ現在の福井県の県域となります。
明治9年、木ノ芽峠を境に敦賀県が分割され、現在の南越前町以北が石川県となり、現在の敦賀市以西が滋賀県に編入。明治14年2月7日には、太政官布告で嶺北が石川県から分離され、嶺南が滋賀県から分離して双方が合併して福井を県庁所在地として現在の福井県が設置されました。
一度は、石川県に入った嶺北が分離した理由としては、当時の石川県令千坂高雅が、嶺北での地租改正反対運動の激化や、自由党の杉田定一等が率いる越前の県会議員が石川県令と県会で激しく衝突したために、治めにくいとして明治政府に分離を働きかけたせいだと言われています。
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福井県民の特徴
福井県民は一般に「堅実で勤勉」その影響で、人口当たりの社長の輩出率や共働き率が全国1位です。古くから農業や商業で繁栄したので働く事が暮らしを豊かにすると実感として感じているのかも知れません。
一方で福井県民は控え目で、人より目立ったり、人より前に出るのを回避する奥ゆかしい人が多いようです。また、福井県民は方言のなまりが出る事を恥じると答えた人の割合が全国一で東京に出ると福井県民だと分からないように熱心に共通語を勉強します。
考えも進歩的で古くからあるしきたりを尊重するより、仕事や生活に新しい事を積極的に取り入れたいと答えた人の割合が全国平均を上回っていました。
西洋医学を学んで解体新書を世に出した杉田玄白や、開明派君主として幕末の政局をリードした松平慶永など、幕末の越前国人の気風を今でも色濃く引き継いでいるのが福井県の人であると言えるでしょう。
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日本史ライターkawausoの独り言
福井県は白山からの豊富な水と豊かな自然に恵まれると共に、近畿と東北を結ぶ海上の中継地点として栄えました。
特に南北朝以後、日本史の中心的な出来事の舞台となり、後醍醐天皇や新田義貞、一乗谷の越前朝倉氏、本願寺一向一揆、柴田勝家、丹羽長秀、結城秀康、杉田玄白、中川淳庵、前野良沢、松平慶永や橋本左内、梅田雲浜など多くの著名人を輩出しています。
今後も自然に恵まれた東日本の物流拠点として、日本社会で大きな役割を果たすのが福井県と言えるでしょう。
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