吉田茂は戦後日本の枠組みを作った総理大臣です。在任中サンフランシスコ平和条約に調印すると同時に日米安保条約を締結しました。そんな茂ですが元々は外交官であり、親英米派として日米開戦を阻止するために活動しました。戦後親英米派として閣僚に名前を連ねた吉田茂ですが、総理大臣になったのは全くの偶然だったようです。
今回のほのぼの日本史は戦後日本の基礎を築いた政治家吉田茂を取り上げます。
この記事の目次
明治11年自由民権の闘士、竹内綱の五男として誕生
吉田茂は、明治11年(1878年)高知県の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として誕生します。吉田茂の実母についてはハッキリしていません。茂が生まれた直後、竹内綱は西南戦争で西郷軍に加担したとして長崎で逮捕。茂は竹内綱の親友で実業家の吉田健三の庇護を受けて成長します。
そのまま茂は男子がいない吉田健三の養子となり明治22年(1889年)養父の吉田健三が40歳で急死した事で茂は11歳で当時の価格で50万円(およそ19億円)という莫大な遺産を相続しました。傍から見るとシンデレラボーイですが、茂は実母の愛情も受けられず、吉田家でも儒学の気風の中で冷たく厳しく躾けられ孤独な少年時代だったようです。
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学校を転々とし帝国大学を卒業外交官へ
少年時代の吉田茂は、明治27年(1894年)に耕余義塾を卒業してのち、商業大学等、様々な学校に入学しますが、いずれも肌に合わないと退校を繰り返します。
その内に外交官の道に進もうと考えて学習院大学科から明治37年(1904年)無試験で東京帝国大学法科大学に移り明治39年に卒業。同年9月に外交官および領事館試験に合格して外務省に入省しました。
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軍部より強硬な満洲権益の擁護者
当時外交官の花形は欧米勤務でしたが、吉田茂は入省後20年の多くを中国大陸で過ごしました。中国における吉田は積極論者で満洲における日本の合法的な権益を巡ってしばしば軍部よりも強硬姿勢だったようです。
茂は、合法的満洲権益は武力に訴えても守るべきとする意見で国際協調路線の田中首相や陸軍から止められるほどでした。
しかし吉田茂は無原則の拡張路線ではなく、条約などに根拠がある合法以外に権益は広げるべきではないという意見で満州事変後もその姿勢は一貫します。中華民国の奉天総領事時代には東方会議に参加し「満蒙分離論」を支持していました。
満蒙分離論とは、万里の長城以北については中華民国の領土とは認めず特殊地域として、満洲軍閥の張作霖などの支配下においてその中で日本の満洲権益を保持するという考え方です。
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親米英派で日独伊三国同盟反対派
ただ、吉田は外交では覇権国である英米との関係を重視し急速に勢力を伸ばしたナチスドイツに警戒感をもっていたので、岳父にあたる牧野伸顕と共に親英米派と見られ日独の提携を考える枢軸派からは攻撃されました。
昭和11年、2,26事件から2か月後に駐イギリス大使となり、日独防共協定や日独伊三国同盟にも反対し日米開戦を阻止しようとしますが成功しませんでした。
大東亜戦争中もミッドウェー海戦の敗北を和平の好機ととらえてスイスに赴いて和平交渉にあたろうとしますが、その後、日本軍が態勢を建て直したために失敗します。
昭和20年、いよいよ日本の敗色が濃厚になると終戦工作に奔走しますが吉田邸に潜入したスパイにより計画は軍部に漏れ憲兵隊に拘束されます。
しかし、吉田は陸軍大臣の阿南惟幾と懇意であった事から投獄された面々で茂だけ独房で差し入れ自由という好待遇で40日あまりで不起訴・釈放となりました。この戦中の投獄は茂に有利に働き、「反軍部」の勲章としてGHQの信頼を得る事になります。
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鳩山一郎の後任として総理大臣に
終戦後、一転して戦中不遇だった親英米派に脚光が当たる事になります。それまで次官止まりだった茂も終戦後に組閣された東久邇宮内閣の外務大臣に就任。東久邇宮内閣がGHQと対立して総辞職すると幣原内閣の外務大臣として留任しました。
戦後初の総選挙で幣原内閣が倒れると、第一党になった日本自由党総裁、鳩山一郎が首相に内定しますが突如として鳩山が戦争協力者として公職追放されます。後継候補選びで奔走していた茂ですが、いずれも鳩山一郎とウマが合わず鳩山は、切羽詰まって茂に日本自由党総裁就任を要請しました。
困惑した茂は条件として「選挙の金策はしない。辞めたくなったらいつでも辞める。しかし内閣人事に党の口は挟ませない」を条件に総裁を引き受けます。こうすれば鳩山は諦めるだろうと思っていましたが、鳩山は渋々条件を飲み、茂は68歳という高齢で総理大臣に就任しました。
吉田は大蔵大臣に石橋湛山を任じて傾斜生産や復興金融金庫の活用による戦後経済復興を推進しますが、失業問題や食糧不足は深刻で国内では労働争議が頻発し社会党や共産党が勢力を伸ばし、革命前夜の様相で政権運営は落ち着きませんでした。
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総選挙で日本社会党に敗れ下野
昭和22年4月日本国憲法の公布により、総理大臣が国会議員である事が要件となり、吉田が所属した貴族院議院が廃止されたため茂は実父や実兄の選挙区であった高知県全県区から立候補してトップ当選します。
しかし、与党日本自由党は戦後の食糧不足や失業問題を解消できずに議席が低迷し片山哲を書記長とする日本社会党に第一党を奪われました。日本社会党も安定多数には遠く、自由党との連立政権を模索して茂を続投させようとしますが、吉田は社会党左派の共産主義路線を嫌い下野します。
連立寄合所帯の片山内閣はすぐに倒れ、続く芦田均内閣も昭和電工疑獄で崩壊しました。この間に政策に不満をもって民主党を離党した幣原喜重郎や田中角栄らの民主クラブと日本自由党が合併して民主自由党が結成され吉田茂が総裁に就任します。
この時、GHQの社会主義者グループの巣窟であった民政局による山崎首班工作事件が起きます。これは、吉田茂に政権を獲得させない為に、同党幹事長山崎猛を首班とした民主党・日本社会党・国民協同党との連立内閣の成立を目論む工作です。
連立政権の動きは吉田派の広川弘禅、白洲次郎から茂に伝わり、茂はここに民政局が関与していると考えて直接マッカーサーに確認。マッカーサーは「私はそんな動きは知らないし吉田内閣が成立すれば協力する」と伝えます。
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選挙で大勝し安定多数を確保
吉田の腹心の松野鶴平は山崎を説得して議員辞職させ、これで山崎に首相就任の資格が消滅したので吉田は民主自由党単独で内閣を組織。それに対して社会党などの野党は内閣不信任を提出可決したので、茂は衆議院を解散。第24回選挙で民主自由党は圧勝し、戦後日本史上特筆すべき第三次吉田内閣が発足します。
吉田は反ファシズムであると同時に反共主義者でもあり、安定した議席を背景にGHQ参謀二部(G2)のチャールズ・ウィロビー少将に書簡を送り共産主義者の破壊活動を防止し、国民に共産主義に対する脅威を啓発する目的で破壊活動防止法の成立と公安調査庁、内閣調査室を設置する切っ掛けを作ります。当時は冷戦が始まり、アメリカ国内でも赤狩りが吹き荒れている時代でした。
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サンフランシスコ平和条約に署名
吉田茂最大の功績はサンフランシスコ講和条約の締結です。
当時の日本では日本の非武装中立を唱える国務省と日本に再軍備を認め共産主義の防波堤にする国防省の意見が対立。昭和25年には朝鮮戦争も始まり、戦争の推移によっては大陸が完全に赤化する可能性もありました。
一方、国内では日本がソビエトを含めたすべての国々と講和すべきと主張する全面講和論とアメリカを筆頭とする西側諸国と個別に講和を結ぶ単独講和で議論が二分していました。
吉田茂は全面講和が日本の独立を遅らせ、共産主義勢力を利するだけであると決断し、単独講和の方針を取って1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約を締結。同時に現在まで日米問題として横たわる日米安保条約を締結しました。
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日米安保と背中合わせの独立
サンフランシスコ平和条約の発効で日本を占領した連合軍は全て退去し、同時に日本に不足する軍事力を補う為に日米安保で米英と個別に安全保障条約を結んで共産勢力と対峙する。
独立を回復したハズなのに他国の軍隊が日本各地に駐留し、裁判権などは不平等条約。沖縄は切り離してアメリカ軍政に置き去りと矛盾だらけではありますが、茂は現実路線から平和条約締結に取り組み、その時点で望み得る日本の「独立」を勝ち取ったのです。
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バカヤロー解散の真相
サンフランシスコ平和条約締結後、側近の白洲次郎の退陣論を退け茂は政権続投に意欲を見せました。しかし、党内には公職追放を解かれた鳩山一郎を総裁に復帰させる動きもあり、党内の求心力は凋落していました。
茂は抜き打ち解散で総選挙に打って出ますが、改選後の議席は過半数を僅かに上回る程度で終りました。
1953年2月、通常国会で質問者の社会党右派西村栄一の執拗な質問に対しイライラした吉田は「無礼だろう」と言い返し、「無礼とはなんだ」と言い返した西村に対し小声で「ばかやろう」とつぶやきました。これを運悪くマイクが拾っていて西村が発言を問題視し吉田に謝罪撤回を要求します。
吉田も言い過ぎを認めて謝罪し撤回、西村も「七十を過ぎた総理が撤回したからには、もう何も言いません」と蒸し返しませんでした。バカヤロー事件はたったこれだけの話でしたが、三木武吉ら民自党の反吉田グループはこれに対して懲罰動議を求め、さらに内閣不信任案を可決させます。
身内の裏切りに対し茂は衆議院を解散(バカヤロー解散)で対抗しますが選挙で自由党は少数与党に転落しました。その後の造船疑獄で茂は法務大臣の犬養健を通して検事総長に佐藤栄作幹事長の収賄罪逮捕を延期させて世論の猛反発を招きます。
昭和29年(1954年)12月7日、さらなる野党による内閣不信任可決が確実になると、茂は、なおも解散で対抗しようとしますが緒方竹虎等側近に諫められ12月7日に内閣総辞職翌日に自由党総裁を辞任しました。
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89歳で大往生
昭和30年(1955年)自由民主党結成に吉田は当初参加せず、佐藤栄作らと共に無所属でしたが、池田勇人の仲介で昭和32年に入党します。しかし、昭和38年(1963年)10月14日次期総選挙の不出馬を表明して政界を引退しました。
引退後も大磯の自宅には政治家が出入りし、「大長老」「吉田元老」などと呼ばれ政界の実力者として隠然たる影響力を持ちます。80歳を過ぎても茂は元気で、昭和39年(1964年)にはマッカーサー元帥の葬儀に参加するために高齢をおして渡米しました。
この頃、財界人に「先生はお元気ですな、何か健康の秘訣があるのですか?」と尋ねられると茂は「そりゃあるよ。第一、君たちとは食っているものが違うよ。私は人を食っとるからね」と答えたそうです。
昭和42年(1967年)8月茂は心筋梗塞を発症。それでも口だけは元気でジョークを飛ばす余裕もありましたが、10月19日に三女の麻生和子に富士山が見たいと言い出し、一日中飽かずに富士山を眺めると10月20日に死去しました。
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日本史ライターkawausoの独り言
戦後政治史の中で五回総理大臣に任命されたのは吉田茂だけだそうです。茂は癇癪持ちで頑固でワガママしたが、貴族趣味で洒脱でユーモアがあり、また辛抱すべき時にキッチリ辛抱して次の機会を待つ才能がありました。
逆風時に折れずに信念をもって突き進むのは茂の特質であり、サンフランシスコ平和条約の難局を乗り越える原動力になりましたが、長期政権になり、また当人も総理の職に執着し、晩年は疑獄事件や強権発動で政治生命に汚点を残しました。
また、あまりにアメリカ寄りの政策を取ったため、戦後日本のアメリカ追従の原因を作ったとも言われます。それでも、戦後の激動期に長期政権を実現した手腕は見事であり、池田勇人や佐藤栄作、田中角栄など多くの政治家を育て保守本流の流れを作るなど現在の自由民主党に影響を与えました。
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