世の中には自分の事は無頓着で控え目なのに、公共の事になると非常に厳しくちゃんとしないといけないと考える人がいます。北条泰時はまさにこういう人物の典型例で古き良き日本人の美徳を持つ人でした。
この記事の目次
北条義時の長男として誕生
北条泰時は、治承寿永の乱のただ中、寿永2年(1183年)、北条義時の長男(庶長子)として生まれました。幼名は金剛です。母の名は阿波局で御所の女房と記されるのみで出自は不明、生母の身分が低い事は金剛の政治姿勢に影響を与える事になります。
泰時の父、北条義時
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けんかをやめて!奥ゆかしい金剛
金剛は少年のころから奥ゆかしく自己主張をせず、周囲を立てる人物だったようです。吾妻鏡によると金剛が10歳の頃、御家人多賀重行が金剛とすれ違った時、本来は馬から降りて挨拶しないといけないのを無視して通り過ぎた事がありました。
頼朝は重行の態度を重臣北条氏に対する無礼であり、ひいては自分をも軽んじる事だと激怒し重行を呼び出して厳しく詰問します。しかし、重行は無礼な事をしたとは思っていないし、金剛も問題にしなかったと抗弁し、金剛に聞いてみて下さいと反論。
頼朝が金剛を呼び出すと
「はい、多賀殿の言う通りです。多賀殿も無礼なことをしたとは思っていませんでしょうし、私もそんな事は思っていません」と答えました。しかし、頼朝は金剛が重行をかばい、嘘をついているのだと判断、重行から領地を取り上げ金剛には褒美として剣を与えたそうです。
金剛が10歳と幼く純粋であるのも関係していますが、自分の事で波風を立ててほしくない、私の事で争わないで欲しいという、竹内まりやの曲「けんかをやめて」みたいな性格です。
泰時に剣を与えた源頼朝とは?
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頼朝から一文字もらい頼時と名乗る
金剛は、建久5年(1194年)2月2日に13歳で元服し、初代将軍源頼朝から名前の一文字を賜って頼時と名乗ります。
元服と同時に頼朝の命令によって三浦義澄の孫娘との婚約が決められ、建仁2年(1202年)8月23日には三浦義村の娘矢部禅尼を正室に迎えました。この間、頼朝の死を契機に名前を頼時から泰時に改めています。
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父義時に従い北条氏のライバルを撃破
建仁3年(1203年)9月、北条氏のライバル比企能員の討伐に参加。建暦3年(1213年)の和田合戦においては、父義時と共に和田義盛を滅ぼし戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任命されます。
こうして次第に泰時は存在感を増し、建保6年(1218年)には侍所の別当(長官)に任じられ、翌年、承久元年(1219年)には従五位上・駿河守に叙位、任官を受けて貴族に列します。
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承久の変後は叔父時房と京都に留まる
承久3年(1221年)3代将軍実朝が公暁に暗殺された後、4代将軍就任の許しがない事に不信感を持った後鳥羽上皇は、北条義時が鎌倉幕府を乗っ取っていると憤り、兵を集め全国の武士に義時討伐の勅命を出します。世にいう承久の乱です。
上皇との直接対決に鎌倉は大混乱になりますが、39歳の泰時は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入城しました。この戦果は、その後、泰時が3代執権になる時、計り知れない影響をもたらします。
泰時は、戦後、新たに都に設置された六波羅探題北方に就任。同じく六波羅探題南方には叔父の北条時房が就任しました。以降、泰時の活躍の場は京都になり朝廷の監視、乱後の処理や鎌倉幕府の権力が及ばない西国武士の監督になります。
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父義時が急死、後継者争いへ
貞応3年(1224年)6月、父・義時が脚気と熱中症の併発により62歳で急死します。北条義時は、父時政ほどではないものの子沢山で、また何度か結婚して母が違う子がいて、後継者を巡る抗争が激化していました。
この段階で最大の後継者候補は、義時の後妻である伊賀の方との間に生まれた北条政村ですが、それ以外にも離別した姫の前との間に生まれた北条朝時もいたのです。
そして、一番悪い事に、義時は脚気が悪化していたものの、自分が死ぬとは考えていなかったようで譲状(遺言状)を残していませんでした。
遺言状がないという事は、後継者の選定において最も発言権があるのは後妻、伊賀の方であり、彼女は兄の伊賀光宗や娘婿の一条実雅と共謀。北条が立てた4代将軍九条頼経を廃し、5代将軍として一条実雅を立て3代執権に息子である北条政村を立てようとします。
しかし、この事に待ったをかけたのが尼御台北条政子でした。執権の血筋が北条から伊賀に移ると、政子の立場が急激に軽くなってしまうからです。
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伯母、政子の後見で3代執権へ
政子は幕府の宿老である大江広元と共謀し、京都から甥の泰時と弟の時房を呼び戻し、泰時を正執権、時房を副執権(連署)とし、承久の乱での2人の活躍を称揚、次の執権は北条泰時こそ相応しいとして伊賀の方を無視し、義時の法要を泰時におこなわせて3代執権に就任させました。
しかし、41歳になっていた泰時は、すべてについて叔母の意のままになりませんでした。伊賀の方や一条実雅の流罪後の死は防げませんでしたが、伊賀光宗は流罪後も匿い、異母弟である政村については罪を不問にして、変わらず幕政に参加させます。
同時に、相続した義時の所領についても、自分は少ししか取らず弟や妹に大半を分け与えました。政子はそれに対し弟妹たちに土地を与えすぎると文句を言いますが、泰時は「自分は執権なのですから、皆の手本とならねば」と辞退しました。
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北条一門に気を使いつつ権力を強化する
これを泰時の優しさと見る事も可能ですが、元々、泰時は3代執権になる予定がない立場であり、北条一門の反発が大きい事への配慮もあります。
つまり、「色々あり、僕なんかが執権になってしまいました。ごめんなさい!お詫びと言ってはなんですが、父の領地はお身内の皆さんに優先的に分配します」と周囲に配慮し媚びを売ったとも言えるのです。
一方で41歳の泰時は、義時の後継者としての布石をちゃっかりと打っています。北条氏嫡流の家政を切り盛りする「家令」を新設。信任厚い家臣の尾藤景綱(大河ドラマにおける鶴丸)を任命し他の北条一門と異なる嫡流家の立場を明らかにしていきます。
家令は執権の意向を受けて、北条氏一門を監督する立場で泰時は、しれっと自分は北条氏一門と同列ではなくその上に立っていると宣言したのです。
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父が失敗した13人の合議制を再開する
泰時の執権就任から僅か1年後、嘉禄元年(1225年)6月大江広元が死去し、さらに翌月には政子が世を去りました。死の床にある政子を見た泰時は狼狽し、自分は出家すると言い出して、政子に窘められたそうですが、演技か本当か分かりません。
しかし、広元や政子が死んだことで幕府の政治を泰時が自分の裁量で裁けるようになったのは事実で、以後、泰時は父義時が打ち出し大失敗した13人の合議制を焼き直し、ちゃんと機能する集団指導体制を模索します。
その最初の一歩として、泰時は叔父の時房を京都から呼び戻し、それぞれの嫡男である時氏と時盛を後継の六波羅探題に任命します。泰時は叔父であり人望と能力に優れた時房とは妥協して協力体制を確立させ正副の2人の執権を置く両執権制が誕生しました。
※やがて副執権は「連署」と呼ばれるようになります。
泰時はさらに三浦義村ら有力御家人と中原師員ら幕府事務官僚などから構成する合計11人の評定衆を選定し執権2人を加えた13人の「評定会議」を新設。鎌倉幕府の最高機関と規定し、政策や人事の決定、訴訟の採決、法令の立法をとり行いました。
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四代将軍藤原頼経を就任させ摂家将軍が始まる
泰時はその後、源実朝暗殺後、鎌倉殿として京から迎えられ承久の乱で棚上げになっていた藤原三寅を8歳で元服させ、藤原頼経と名乗らせ四代将軍とします。そして、頼朝以来大倉にあった御所に代わり、鶴岡八幡宮の南、若宮大路の東側である宇都宮辻子に御所を建設。
将軍頼経がここに移転し翌日、評定衆による最初の評議をし、以後すべて賞罰は泰時自身で決定する旨を宣言しました。
これにより、鎌倉殿は実権を奪われて名目上の存在になります。ただ、泰時は将軍をないがしろにすることはなく、評定で決められた事は常に征夷大将軍に報告し、京都を模倣して鎌倉大番役や四角四堺祭などを導入、幕府の最高権威はあくまで征夷大将軍であることを強調します。
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身内の不幸に見舞われる泰時
一方、家庭人としての泰時は度々身内の不幸に見舞われました。嘉禄3年(1227年)16歳の次男時実が家臣に殺害され、さらに3年後の寛喜2年(1230年)には長男で声望が高かった時氏が病のため28歳の若さで死去したのです。
追い打ちをかけるように、1ヶ月後には、三浦泰村に嫁いだ娘が出産。しかし、生まれた子は10日余りで亡くなり、娘も産後の肥立ちが悪く8月4日に25歳で死去するなど、立て続けの不幸に襲われます。
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日本史の定番貞永式目の制定
承久の乱以後、西国で後鳥羽上皇についた武士の所領2000か所を没収した結果。御家人の数が大幅に増加し、新たに任命された地頭の行動や収入を巡って各地で盛んに紛争が起きていました。
また、個人独裁を排して集団指導体制を行うのに、幕府の政治方針を抽象的に明記する必要が生じました。これ以前から紛争解決に頼朝時代の「先例」を基準としていましたが、すでに紛争は頼朝時代とは比較にならない程に複雑化していました。
そこで、泰時は朝廷の法律を学ぶ事にし、京都の法律家に依頼して律令などの貴族の法の要点を書き出してもらい毎朝熱心に勉強します。そして、武士社会の慣例や正義観を基準とし、先例を取り入れつつ、統一的な武士社会の基本となる「法典」の必要性を考え、評定衆もこれに同意します。
そして、泰時を中心に評定衆たちが案を練って編集を進め、貞永元年(1232年)8月、全51ヶ条からなる鎌倉幕府の基本法典貞永式目」が完成しました。
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実情を知り尽くした泰時の偉大さ
泰時が、貞永式目を制定した頃、どうして朝廷の律令があるのに別に法律を造るのか?東国の野蛮人がやる事は分からんよと西国では盛んに陰口が叩かれたようです。
それに対し泰時は、以下のように答えています。
「いかにも我が国には律令があるのだが、東国の人間は西国の法に疎く、文字を読めない人間も多い、そんな状態で律令を盾に処罰したのでは、鳥獣を罠にはめて捕らえるようなものではないか?
だから、私は東国の素朴な習慣や正義を基にして道理に基づいた法律を造ったのだ。慣習に即しているから無理がなく、慣習を守ることが法を守る事に繋がり、皆が平等に安心して暮らせるならとても良い事ではなかろうか?」
貞永式目は、中国からの輸入の律令や、近代以降の欧米法の模倣と違い、日本の慣習に基づいた法律であり、日本法制史で特異な地位を占めています。ここから日本独自の法は始まったのであり、泰時の業績は特筆すべきでしょう。
それよりなにより、貧しく学問がない人々の幸せの為に貞永式目を制定した泰時は、日本史にその名を刻む名君だったのです。
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北条泰時の晩年
泰時の晩年には、全世界的に異常気象が発生していました。寛喜3年(1231年)には寛喜の大飢饉が発生、人口の1/3が死んだと嘆かれる惨状を極め、泰時は餓えた人々の救済対策に追われます。
前年の寛喜2年(1230年)、泰時は嫡男時氏に替えて異母弟の北条重時を六波羅探題に任命し、後任の小侍別当には伊賀の方の子である異母弟北条実泰を命じました。どちらも北条氏一門で特に泰時が信頼する人物です。
小侍別当の実泰が病で引退すると、時氏の長男。北条経時と実泰の長男である北条実時が交互に別当の地位に就きました。
嘉禎元年(1235年)石清水宮と興福寺が争い、これに比叡山延暦寺も巻き込んだ大規模な寺社争いが発生すると、泰時は強権を発して寺社勢力を押さえつけました。
院政期より、興福寺、延暦寺をはじめとする僧兵の横暴は朝廷が対策に苦しんでいましたが、泰時は僧兵対策に幕府が全面的に乗り出す方針を打ち立て神仏を盾にしようと不当な要求には応じず断固武力で鎮圧するようになります。
泰時は道理が通らない事には人並み以上に厳しい人物だったのです。
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両執権時房の死後、時房流を排除
暦仁元年(1238年)四代将軍藤原頼経が上洛。泰時、時房、実時、そして泰時の孫である経時や時頼らも随行します。
北条一門を引き連れた頼経の上洛は皮肉な事にお飾り将軍の威光強化に繋がり、三浦一族や、北条氏名越流のような得宗家に押さえつけられた勢力の将軍への接近を促し、宝治合戦のような内紛に繋がりました。
上洛の最中、泰時は武蔵守を時房の息子で自分の娘婿である朝直に譲ります。しかし、仁治元年(1240年)1月24日「副執権」で泰時最大の脅威、北条時房が死去すると、時房の長男で六波羅探題の時盛が鎌倉に戻り執権を補佐する事を上申しますが許可されませんでした。
娘婿は優遇し、時房の嫡男は冷遇する泰時の態度は、時盛と朝直の感情的な対立を引き起こし、時房流の勢力の分裂を狙った行動と見られています。
また、延応元年(1239年)12月5日には、父義時の盟友で舅でもあった三浦義村も病死していて、もはや泰時が行動を遠慮する相手はいなくなっていたのです。
泰時は父のように強引に政敵を排除しようとはしませんが、病死のような機会を逃さず、敵対勢力の封じ込めを狙うのは躊躇しませんでした。
仁治2年(1241年)泰時は経時と実時を自邸に呼び、三浦泰村や後藤基綱ら有力御家人、二階堂行盛、太田康連ら実務官僚たちを招集すると、孫の経時を後継者として指名し、北条実時にその補佐を依頼します。
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承久の乱テーゼを守り抜く
仁治3年(1242年)四条天皇が崩御。朝廷は順徳天皇の皇子である忠成王を新たな天皇として擁立しようとします。本来、天皇の選定は朝廷の重要な権利であり、横槍を入れる事は許されませんでした。
しかし泰時は忠成王の父、順徳天皇がかつて承久の乱を主導した首謀者の一人だった事を理由に強く反対。忠成王の即位が実現するならば退位を強行させると朝廷を恫喝し、公家の不満と反対を押し切り、後嵯峨天皇を推戴し新たな天皇として即位させます。
承久の乱以来となる泰時の強引な措置は、九条道家や西園寺公経ら京都の公家衆の一部から反感を持たれ、彼らとの関係が次第に悪化、後の将軍頼経を担いでのクーデター計画にも影響していきます。
泰時は、承久の乱のような戦乱を二度と起こすまいと考えていて、その原因になりそうな事は、ことごとく未然に排除し情け容赦ありませんでした。一方で、新天皇の外戚である土御門定通は泰時の妹、竹殿を妻としていたため泰時は定通を通じて朝廷内部に勢力を浸透させていきました。
承久の乱の目的は討幕ではない?
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60歳で大往生
仁治2年(1241年)6月、泰時は皇室問題で悩み体調を崩します。幸いこの時は7月に回復しましたが、以後体調は不安定で翌年、仁治3年(1242年)5月9日出家し上聖房観阿と号しました。
鎌倉時代は死ぬ前に出家しないと極楽往生出来ないと考えられていて、泰時も余命が残り少ない事を覚悟しての出家と考えられます。
6月に入ると、泰時は赤痢を併発し平清盛を思わせるような熱病に苦しんだとされ、それは、承久の乱で三上皇を島流しにした祟りだと噂されました。泰時は治療の甲斐なく、1ヶ月半後の6月15日60歳で死去しました。
死の翌日、第4代執権にはすでに後継者に指名した孫の北条経時が就任し、混乱する幕府政治を引っ張っていく事になります。
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日本史ライターkawausoの独り言
北条泰時は、2代執権北条義時の長男ですが、生母の地位が低く、本来なら執権になる可能性はない人物でした。しかし、義時急死の非常事態を受けて、伯母の北条政子の後援を受け思いもかけず執権になってしまったのです。
本来執権になるべき弟達を差し置いて執権になった事は、泰時の心に後ろめたさを残し、本来の控え目な性格がより強力に発揮されるようになり、政治が独裁に陥らないように合議制を採用し、執権と連署の二頭体制を敷くに至ります。
ただ、泰時は謙虚な半面、社会秩序を乱すような公の破壊には人一倍の正義感を発揮。僧兵の強訴のような自分勝手や承久の乱を再燃させるような天皇の登場には極めて厳しい態度で臨みました。
叔父の時房の勢力を、時房死後に分断したり、将軍権力を完全に奪うなど、決してお人好しなだけではない冷徹な政治家の面もありますが、それも振り返れば(公のために)ケンカをやめて~2人を止めて~という争いを嫌った泰時の性格の反映でしょう。
色々言われても、泰時はやはり名君であったと言えると思います。
参考文献:Wikipedia
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