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北条政子の演説とは?多くの御家人を奮い立たせた尼将軍の演説

02/05/2022


北条政子とラブラブな源頼朝 鎌倉 女性

 

北条政子(ほうじょうまさこ)」は鎌倉(かまくら)幕府初代の源頼朝(みなもとのよりとも)の妻であり、のちには「尼将軍(あましょうぐん)」とも呼ばれ一時期は幕府の権力を握った女性として知られていますね。

 

北条政子による「承久の乱」の名演説

 

そんな北条政子、「承久(じょうきゅう)の乱」において天皇家との戦いに動揺する御家人(ごけにん)らの前で彼らを奮い立たせる演説を行っていました。今回の記事ではそんな北条政子の演説と、彼女の生涯についても紹介していきましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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源頼朝の妻となる北条政子

家を飛び出し源頼朝と交際を続ける北条政子

 

北条政子は伊豆地方の豪族である「北条時政(ほうじょうときまさ)」の娘として生まれました。後に平家との対立で敗れ、伊豆に流刑となっていた「源頼朝」と恋仲になってしまいます。

 

北条政子と源頼朝の熱愛ぶりに時政も折れる

 

父の時政は頼朝の監視役だったのですが、しぶしぶこの結婚を認め、以後は頼朝の有力な支援者となっていきます。後に頼朝は平家(へいけ)を倒し、政子は「御台所(みだいどころ)」と呼ばれるようになります。

 

ゴッドマザー北条政子

 

「御台」とはもともと身分の高い人の食事を乗せる盤を指し、それが転じて身分が高い夫人の事を「御台所」と称するようになりました。この名称は北条政子以後、将軍の夫人を指す用語になります。

 

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鎌倉殿の13人

 

 

 

頼朝の死後

鎌倉幕府を開くが急死した源頼朝

 

政子は頼朝との間に2男2女を設けますが、夫である頼朝は西暦1199年に亡くなってしまいます。政子は出家し、「尼御台(あまみだい)」と呼ばれるようになります。

 

源頼家 鎌倉殿の13人

 

将軍職は長男である「頼家(よりいえ)」が継ぐのですが、頼家は周囲の意見も聞かず独裁体制を志向し、また蹴鞠(けまり)などの遊興にもふけっていました。政子は頼家を度々(いさ)めますが、彼はいうことを聞きません。

 

 

そんな時頼家は病床についてしまい、その隙に北条家は幕府の実権を握ります。病気から快復した頼家はこれを察知して北条家を討伐しようとしますが、協力者の「比企氏(ひきし)」が討たれ、頼家は政子により無理やり出家幽閉され、将軍職も弟の「実朝(さねとも)」に譲ることになります。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

「尼将軍」と呼ばれる

北条時政

 

頼家の跡を継いだ実朝でしたが、その補佐をする「執権」として政子の父時政がその地位に就きます。以後、鎌倉幕府は北条一門によって統治されることになっていきます。

 

父・時政を追放する北条政子と北条義時

 

ただ、時政は勝手な振る舞いも多く、婿を将軍職にしようとしたため、政子は弟の「北条義時(ほうじょうよしとき)」と協力し、父の時政を追放しています。将軍の実朝は朝廷とのつながりを深めていきますが、1219年頼家の息子の「公暁(くぎょう)」に鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)に参拝する際に殺されてしまいます。子供をすべて失ってしまった政子の悲しみは大きく、「身を投げようと思った」と資料には記載されています。実朝の死後は将軍職は空位となり、政子が執権の義時とともに政治を行い、政子は「尼将軍」と呼ばれるようになりました。

 

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はじめての平安時代

 

 

 

朝廷との対立、そして承久の乱

 

鎌倉幕府は次の将軍として朝廷から皇族を迎えようとしましたが、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が反対し頓挫します。やむを得ず、公家から将軍を迎えることになりました。

 

鎌倉幕府と権威を回復しようとする朝廷の対立は深まり、ついに後鳥羽上皇は挙兵します。上皇は全国に「院宣(いんぜん)」(上皇の命令)を出し、幕府の北条義時の追討を命じます。朝廷に弓ひくことを恐れた御家人たちは動揺しますが、ここで北条政子が御家人たちの前で演説を行います。

 

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源頼朝

 

 

北条政子の演説

尼将軍と称えられた北条政子

 

北条政子の演説は「最期の(ことば)」から始まります。

 

「右大将(源頼朝)が幕府を作り、昨今は平家におびえることもなく、生活も安定したでしょう。そんな亡くなった右大将の恩は山よりも高く、海よりも深い。しかしながら逆臣が讒言(ざんげん)したのであろう、不義の院宣が出された。さあ、名を惜しむものならば朝廷側に味方する武将を討ち、右大将の恩に報いるのです。もし朝廷に味方するものがいるならば、今すぐ名乗り出なさい。」と演説したと言います。

 

この演説によって御家人たちは奮い立ち、承久の乱は幕府側の勝利に終わるのです。

 

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源義経

 

 

 

書物によって演説の内容が違う?

吾妻鏡の表紙 書類.jpg

 

有名な北条政子の演説ですが、実は書かれた書物によって内容が違います。前述の演説は「吾妻鏡(あずまかがみ)」という幕府によって編纂(へんさん)された歴史書から抜粋しています。ちなみに吾妻鏡での演説は「安達景盛(あだちかげもり)」という御家人が代読しています。

 

そして「承久記(じょうきゅうき)」という軍記物語では「皆さん、聞いてください。私は夫、娘、息子に先立たれ、つらい思いをしてきました。もし弟の義時が討たれればさらに悲しい。今お前たちが都での労役で妻子にも会えずつらい思いをしていたのを解放したのは鎌倉幕府である。お前たちが朝廷側に就くならば、源頼朝、実朝の二人の墓を馬で蹴るようなものだ。私が流す涙を、不憫とは思わないのか。」

 

と、情に訴える演説をしています。

 

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北条義時

 

 

日本史ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

政子の演説の後、鎌倉幕府は上皇軍を破り、幕府の権力を高めました。歴史の転換点には政子のように人の心を打つ演説が必要になるのかもしれませんね。現在でも「心に訴える」ことは重要なのでしょう。

 

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日本史で好きなところは一つの「決断」が大きく世の中を変えてしまうことでしょうか。そんな中でも「決断」にミスをしても、その後復活したりする人物には尊敬をかんじますね。自分もミスしてもあきらめずに過ごしたいものです。
好きな歴史人物:長宗我部盛親、立花宗茂

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