鎌倉時代って、最初の源平の戦いはよく知られていますが、頼朝の死後、北条氏の執権政治が始まると急にマイナーになっていきますよね?
そして、蒙古襲来になるとまた知名度が上昇してくる感じですが、その間の100年には、どんな出来事が起きていたのでしょうか?分かりやすく解説します。
この記事の目次
鎌倉幕府の成立
治承4年(1180年)源頼政が以仁王と結んで反平家の狼煙を上げます。しかし計画は平清盛に漏れ、たちまち鎮圧されて以仁王は討ち死に、頼政は自刃しました。ですが、以仁王が発した平家討伐の令旨が平家の支配に不満を持つ武士勢力に伝播し蜂起させました。
平治の乱に敗れ伊豆に流されていた頼朝は、京都の三善康信からの「清盛が頼朝の命を狙っている」というデマ情報に動揺しヤケクソ蜂起。舅の北条時政や佐々木一族の助けを得て、伊豆目代、山木兼隆の屋敷を襲撃、山木を殺害し伊豆国衙を占領します。
その後、頼朝は北条氏と縁戚の三浦氏と合流しようと武蔵へ向かう途中で、大庭景親や伊藤祐親の軍勢に追いつかれ、石橋山の戦いで潰滅しました。
頼朝は僅かな供と房総に逃れ、上総国の大豪族、上総広常や千葉常胤の助力を得て勢力を巻き返し、3万の大軍勢になり鎌倉に入城して本拠地とします。
その後、平維盛を総大将とする平家の追討軍を富士川の戦いで敗走させると、返す刀で自分を追い詰めた大庭景親を捕らえて斬首。
一度は頼朝に離反した畠山重忠等も頼朝に忠誠を誓い、 寿永二年(1183年)10月には、後白河法皇から宣旨を受けて、東国の支配権を認められました。
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源範頼、義経による平家追討
先に平家を京都から追い出していた源義仲が、後白河法皇の信任を失い対立するようになると、頼朝は弟の源範頼と源義経を平家追討軍として派遣。
宇治川の戦いで源義仲を滅ぼすと、一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと源義経がめざましい功績を挙げて平家を滅ぼします。しかし平家が滅びると頼朝と義経の関係は悪化、義経は後白河法皇から頼朝追討の院宣を受けますが味方を得られずに失敗。
文治元年(1185年)頼朝は義経の捜索と捕縛を名目に全国に守護・地頭を設置する事を後白河法皇に願い出て許可を受けます。これが、鎌倉幕府の全国支配の布石になっていきます。
最終的に義経は、平泉の藤原秀衡を頼りますが、秀衡死後、秀衡の息子の泰衡に裏切られて衣川で自殺しました。文治5年(1189年)頼朝は奥州征伐をおこない、奥州藤原氏を滅ぼし全国を統一しました。
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北条氏の台頭
建久3年(1192年)源頼朝は征夷大将軍に任命されます。
それ以前から鎌倉幕府は機能していて、征夷大将軍に就任する事と幕府を開くのは別々の事でしたが、頼朝は正二位という左大臣クラスの高位で征夷大将軍に就任したので、征夷大将軍は、他の将軍とは別格の武家棟梁の象徴になりました。
頼朝は嫡男の頼家に鎌倉殿を世襲する事を考えますが、頼家の生母は時政の娘の政子であり、北条氏の勢力が強くなりすぎる懸念がありました。
そこで、自身の乳母である比企尼の甥である比企能員を引き立て、比企の娘を頼家に娶らせ嫡孫の一幡が誕生します。しかし、頼朝は建久10年(1199年)に落馬して病床につき急死。
頼家は18歳で2代目の鎌倉殿になりますが、北条氏のような有力御家人は頼家の強権政治に反発し、13人の合議制を組織して頼家の権力を制限します。
頼家は頼朝の時代からの重臣である梶原景時を頼りにしていましたが、北条氏は三浦氏と共謀、66人の御家人の署名を集めて景時排除を頼家に迫り景時は失脚。その後誅殺されました。
建仁3年(1203年)孤立を深める頼家は重病に倒れました。
これにより、頼家の子、一幡を次期将軍に推す比企能員と頼家の弟の実朝を推す北条時政が対立。時政が先手を打ち、比企能員を自宅に呼び寄せて殺害。比企一族を滅ぼして、3代将軍に源実朝を擁立、北条氏の権力基盤を確立します。
その後、頼家は息を吹き返しますが、北条氏は御家人に手をまわし頼家を伊豆の修善寺に追放し後に殺害しました。
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北条氏による競合御家人の粛清
権力を握った北条時政は執権として、幼少の実朝に代わり権力を代行します。その中で、武蔵の支配権を巡り時政は娘婿でもある畠山重忠と衝突し、重忠に謀反人の汚名を着せて誅殺しようとします。この時、時政の息子の義時や時房は反対しますが、時政は反対を押し切り重忠を排除。
しかし、この事で御家人の支持を失った時政は、将軍実朝を暗殺して、後妻、牧の方の娘婿、平賀朝雅を4代将軍にしようと画策して失敗。
義時と政子が共同で時政を伊豆に追放し権力を奪い取りました。
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源氏将軍の断絶
執権として、幕府の内政機関である政所を掌握した義時ですが、幕府の軍事組織である侍所の別当(長官)は、三浦氏の分家である和田義盛が握っていました。
権力の完全掌握を目指す義時は、建暦3年(1213年)泉親衡の乱に義盛の子や甥が加担していた事を利用し、義盛の甥の和田胤長を和田一族の嘆願を無視してまで許さず、むしろ縄目の恥辱を見せつけるなどして義盛を怒らせます。
こうして和田義盛は北条氏の排除を旗頭に挙兵、当初、この戦いは北条氏と和田氏の戦いとなり、北条氏は追い込まれますが、義時が大江広元と相談し実朝に御教書を書かせて、和田義盛を賊軍に認定した事で、鎌倉中の御家人が義時に加勢、和田氏は滅ぼされました。
実朝は、このようにお飾りではなく将軍として影響力を発揮していましたが、建保7年、頼家の子で甥にあたる公暁に鶴岡八幡宮で襲撃されて絶命します。
実朝には子供がなく、公暁も殺害されたため、頼朝からの源氏将軍は3代で断絶しました。
源氏将軍の断絶を受けて、義時と政子は後鳥羽上皇の皇子を4代将軍にしようと考えますが、後鳥羽上皇が拒否。やむなく頼朝の妹、坊門姫の血筋で摂関家の藤原三寅2歳を将軍として迎えました。
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承久の乱を境に鎌倉幕府は全国区へ
藤原三寅を鎌倉に迎えた義時ですが、すぐに朝廷に将軍宣下を要請しませんでした。この事に後鳥羽上皇は、烈火の如く怒ります。
それまでは河内源氏という天皇の血筋を引く武家が鎌倉に政権を持っていたので容認していましたが、源氏将軍が絶えて、伊豆の小豪族の北条氏が幕府を牛耳った事を下克上と判断したわけです。
承久3年(1221年)後鳥羽上皇は北条義時追討を全国の武士団と幕府御家人に命じ、鎌倉幕府は成立以来最大の窮地を迎えます。義時は評定の末、上皇軍を迎え撃つ事を決意し、息子の北条朝時、北条泰時、弟の北条時房に軍を与えて京都を目指しました。
義時の強気の対応と、尼将軍政子の演説もあり、関東の御家人は続々と鎌倉幕府に味方、幕府軍は15万人に膨れ上がり僅か1ヶ月で後鳥羽上皇方は敗れ去り、鎌倉軍は京都を占領します。
義時は反乱の首謀者である後鳥羽上皇、後土御門上皇、順徳上皇を流罪とし、さらに仲恭天皇を廃位し後堀河天皇を即位させる強硬な措置を取りました。義時は朝廷の動きを監視する為に、六波羅に探題(治安維持と監視)を置き、泰時と時房を奉行とし、引き続き京都の情勢を監視させます。
同時に義時は、上皇方についた武士団や貴族の荘園2000カ所を没収し、幕府に味方した東国を中心とした御家人に新恩給与として分け与えます。こうして東国の御家人が西国にも荘園を保有するようになり、幕府の影響力は全国へ拡大していきました。
この事件以後、建武の新政の3年間を除き、朝廷は完全に幕府の支配下に入る事になり、その状態は明治維新まで続く事になります。
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北条得宗家の成立
元仁元年(1224年)承久の乱を乗り切った義時が急死します。
後継者は義時の後妻、伊賀の方が産んだ嫡男、北条政村になるハズでしたが、自身の影響力低下を恐れた北条政子は、承久の乱で手柄を立て、御家人の信望が厚い泰時を極秘に京都から呼び戻して、3代執権として擁立します。
伊賀の方は、これに対抗して兄の伊賀光宗と共に北条政村を執権に推し、同時に5代将軍として娘婿の一条実雅を擁立しようとしますが、頼みの綱だった三浦義村が政子の叱責で寝返ってしまい、軍事力の後ろ盾を失った伊賀の方は失脚し伊豆へ流されました。
ただ、担がれた北条政村については事件に関与していないとして許され、引き続き泰時に仕えて幕府重臣へと成長していきます。泰時は、京都から叔父の時房も呼び寄せていて、泰時が執権、時房が副執権である連署として、二頭体制で幕府を指導します。
翌年には、北条政子と大江広元が相次いで死去。泰時は執権の独裁ではなく、幕府官僚や有力御家人から11人を選び、それに執権と連署を加えた13人の評定衆を最高意思決定会議として復活させました。
泰時は、律令制に代わる武士の慣習を基礎にした貞永式目を制定して増え続ける土地を巡る紛争に対して公平に対処する事を目指しますが、一方で御内人と呼ばれる北条得宗家の家来を置き、他の北条氏に対し命令を伝達する仕事を担わせます。
こうして、泰時の流れを組む北条氏一門は得宗家と呼ばれ、それ以外の北条氏は得宗に従属する立場になっていきました。
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宮騒動
仁治3年(1242年)北条泰時が死去します。泰時の嫡子、北条時氏と次男の時実はすでに死去していたため、時氏の子の経時が4代執権となりました。
この頃、北条氏は多くの庶流が存在し、経時の執権就任に不満を持つ勢力が多く、特に、北条義時正室、姫の前の子、北条朝時を祖とする名越流は、庶子でありながら執権職を継承する泰時の流派に強い対抗意識を持っていました。
また、2歳で鎌倉に来た藤原三寅も、元服して将軍に就任し藤原頼経と名乗っていて、傀儡である将軍の立場に不満を持ち、名越流の名越光時や有力御家人三浦泰村などと関係を深めていました。
寛元2年(1244年)不穏な動きを察知した北条経時は、藤原頼経を将軍の座から下ろし頼経の子の頼嗣を5代将軍とします。しかし、頼経を京都に追放するまでにはいたらず、頼経は大御所として幕府内に勢力を持ち続けました。
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名越光時との争い
寛元4年(1246年)健康状態に不安があらわれた経時は弟の時頼に執権職を譲ると同年閏4月1日23歳の若さで死去します。それと戦後して、泰時の死の直前に強引に出家させられた名越流の当主北条朝時も死去。
朝時の後継者、名越光時は執権経時の死をチャンスとみて、父の法要を名目に一族郎党を集めて謀議。大御所頼経の側近評定衆、後藤基綱や千葉秀胤、三善康持など反執権派御家人と連携し時頼打倒を計画します。
しかし、時頼は先手を打ち、閏4月18日の深夜より3夜連続で鎌倉市中に鎧兜で身を固めた武士を結集させ、流言を乱れ飛ばせ頼経と光時を混乱に陥れました。
5月24日深夜に鎌倉で地震が起きた翌日、時頼は鎌倉の国境に兵を置いて外部との連絡を遮断。これらの時頼の行動で謀反の計画がばれたと悟った光時は弟時幸とともに出家し降伏します。
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名越流を抑え込み時頼の権力が確立
5月26日、5代執権時頼の私邸に北条政村、北条実時、安達義景が集まり、頼経派御家人たちへの対応を協議します。
しかし、北条氏に次ぐ大豪族三浦泰村の動きが不明で、過酷な処置をすると三浦氏の謀反も誘発する懸念があり迅速な処置が出来ませんでしたが、出家した名越時幸が自害し三浦泰村の弟の家村が時頼私邸を訪れ恭順したので時頼方の勝利が確定しました。
時頼は、大御所頼経の側近、後藤基綱、千葉秀胤、三善康持らをクビにし、名越光時の領地を没収して伊豆へ流し、大御所頼経を鎌倉から追い出して京都へ帰しました。こうして、泰時死後から不安定だった北条得宗家の権力基盤が一応安定します。
三浦氏と安達氏の対立
執権時頼は大御所頼経を京都に強制帰還させた上で、頼経の父九条道家の関東申次職をクビにし西園寺実氏を代わって指名しました。
これにより、頼経と道家の後ろ盾を喪失した反時頼派は武力で時頼を倒すしか道が無くなります。宮騒動では表に出なかった三浦光村は、穏健派の兄、泰村とは反対に時頼に不満を持つ御家人勢力を集めていきます。
執権北条時頼は19歳と若く三浦氏との対立を望まず、三浦氏との妥協の道を模索しますが、時頼の外戚である御家人、安達景盛は三浦氏に比較して低い安達氏の扱いに憤慨。高野山を下りて、時頼に三浦氏討伐を説き、三浦氏討伐に消極的な子の義景や孫の泰盛を激しく叱責しました。
こうして、鎌倉では穏健派の三浦泰村と執権時頼の和平派と、強硬派の三浦光村と安達景盛の勢力が合戦か和平かで綱引きを繰り広げる事になります。
宝治元年(1247年)執権時頼は三浦泰村の次男駒石丸を養子に迎えました。5月13日に5代将軍頼嗣の正室、檜皮姫が病没、時頼は喪に服すために三浦泰村邸を訪問し、2週間近く滞在、三浦氏への敵意が無い事を示し合戦回避に努めます。
三浦氏の当主泰村も合戦の回避を望みますが、強硬派の弟光村が和平に反対して上手くゆかず、同じ頃、安達景盛も鶴岡八幡宮の社頭に三浦氏は討伐されると記した高札を立て、三浦氏を挑発する行為を繰り返しました。
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宝治合戦
5月27日、時頼は、三浦館内で合戦の準備を始める音を聞き、慌てて自邸に戻ります。三浦光村が領地から武具を集めて謀反を企んでいると報告を受ける時頼ですが、それでも泰村を信じ御内人の平盛綱を派遣して和議を結ぼうとし泰村もそれを喜びました。
その事を知った安達景盛は、強引に兵を起こし孫の安達泰盛を先陣として出撃を命じます。それは、平盛綱が和議をまとめ三浦の館に赴くのを出し抜いて攻撃を仕掛けるという騙し討ちでした。
奇襲を受けた泰村は舘に立て籠もって迎撃の構えを取り、鎌倉には御家人達が続々と両陣営に駆けつけ大混乱になります。安達景盛の暴発で合戦に引きずり込まれた時頼は北条実時に御所の守護を命じ、弟の北条時定を大将軍として三浦泰村の討伐を命じます。
三浦泰村は舘に籠って抵抗、弟の光村は80騎で永福寺に籠城して北条氏の所領と鎌倉の連携を分断しました。早朝から始まった合戦は昼になっても続き、北条勢は攻めあぐねますが、風向きが変わった所で周辺の舘に火がかけられた為、燻り出された泰村達は舘を脱出、頼朝の墓がある法華堂に向かいます。
永福寺の光村は泰村に対し、永福寺での合流を勧めますが泰村に戦意はなく、逆に兄弟一緒に亡き頼朝公の御前で死のうと光村に法華堂へ来るように命じました。
当主に戦意がない以上、勝ち目がない事を悟った光村は兄に従い法華堂に入り、三浦一族は500名が自害して果てました。
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北条得宗家の専制が始まる
時頼はさらに千葉秀胤も上総で滅ぼしたので、北条氏に匹敵する御家人勢力は一掃され、幕府の政治は合議から北条得宗家の独裁体制へ変化します。
時頼は一方で、独裁に対する非難の声に配慮し、建長元年(1249年)評定衆の下に引付衆を置いて裁判の迅速化を図ったり、京都大番役の任期を半年から3ケ月に短縮するなど配慮していました。
時頼は、六波羅探題の北条重時を空位になっていた連署に迎えると、後に重時の娘・葛西殿と結婚し、後の八代執権時宗や宗政が生まれています。
建長4年(1252年)時頼は5代将軍頼嗣を京都に追放。新たな将軍として後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を6代将軍に据えました。ここから親王将軍が始まり、鎌倉幕府末期まで4代に渡り継続します。
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時頼、出家後も大御所として政治を主導
康元元年(1256年)連署の北条重時が辞任して出家します。時頼は空位になった連署に、重時の異母弟北条政村を任命します。同年11月、時頼は赤痢に感染、しかし、11月22日に小康状態を取り戻したので、時頼は今後の事を考え、執権及び侍所別当等の多くの役職を義兄の北条長時に譲り、長時が6代執権となりました。
ただし、時頼は完全に引退したわけではなく大御所として強い影響力を残します。時頼が長時を執権に指名したのは、六歳の嫡男、時宗が成人するまでの繋ぎの役割を期待したためで、確実に権力が自分から時宗に引き継げるようにする為でした。
出家して入道となった時頼ですが、その後も幕府恒例儀式は全て時頼が取り仕切り、依然として自身が権力者である事を周囲に見せつけます。さらに時頼は息子達の家督争いを回避すべく、継承順位を時宗、宗政、時輔、宗頼の順位と定めました。
弘長3年(1263年)11月8日、以前から患っていたらしい時頼の病気が悪化し、危篤状態に陥ったので、寺社を挙げて様々な祈祷が行われますが時頼は回復せず、同年11月22日に死去します。37歳でした。
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北条政村が7代執権へ就任
時頼の死後、幕府の政治は6代執権、北条長時と連署北条政村が少年の時宗を補佐する形で進んでいましたが、文永元年(1264年)長時が病を患い出家して執権を退きます。
しかし、時宗は14歳とまだ国政を執るには不十分として連署だった北条政村が60歳で7代執権となりました。伊賀氏の乱の時、執権に擁立されて失敗してから40年ぶりの返り咲きという事になります。
時宗は連署として政村の補佐にまわり北条実時や安達安盛を寄合衆のメンバーとします。文永3年(1266年)6月、6代将軍宗尊親王正室、近衛宰子と僧侶良基の密通事件を口実に宗尊親王は謀叛の嫌疑をかけられます。執権北条政村と連署時宗らは寄合により、将軍解任と京への送還が決定しました。
この強引な措置に対し、不満を持つ御家人が鎌倉に集結。特に親王と親しい名越流北条教時が更迭に断固として反対し、時宗の制止を無視して軍勢を率いて示威行動を行い執権政村に軽率さを叱責されて引っ込みます。
事件は、名越教時が宗尊親王の側近として親密であった事から、名越流北条が親王を担いで得宗家に謀反を起こす事を警戒した為と考えられています。7代将軍は宗尊親王の子で、まだ幼少の惟康王が就任しました。
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北条時宗と二月騒動
文永5年(1268年)1月に蒙古より国書が到来すると元寇という未曽有の国難を前に権力の一元化を図る必要が生まれ、政村は執権を退いて時宗が8代執権となり、自身は再び連署に就任しました。
その頃、時宗の異母兄、北条時輔は文永元年(1264年)より京都の六波羅探題へ出向していました。
六波羅探題は北方と南方に分かれているのですが、北方の北条時茂は文永7年(1270年)に死去。後任が送られなかったため、六波羅探題の業務は南方の時輔が一手に担い影響力を強めます。
また、宮騒動で一時、鳴りを潜めていた名越流北条氏も九州に多くの守護職を持ち影響力がありました。宮騒動で連座を免れた名越時章や教時ですが、教時は前将軍宗尊親王の側近で依然、反得宗家の傾向を持っていました。
時宗が執権になってより4年後の文永9年(1272年)鎌倉で二月騒動が起こります。2月11日、名越時章と教時兄弟が得宗家の被官(家来)である四方田時綱ら御内人に誅殺され、前将軍宗尊親王の側近中御門実隆が召し禁じられました。
4日後の2月15日、京都では前年12月に六波羅探題北方に就任した北条義宗が、鎌倉からの早馬を受けて南方の北条時輔を討伐します。
これが二月騒動で、多くの人々が事件に関与したとして処分されました。また、事件に無関係ながら前将軍宗尊親王は圧力を受けて出家に追い込まれています。二月騒動はこれで終わらず、名越時章に異心はなく誤殺であったと発表され、結果、討手である御内人5人は責任を問われて9月2日斬首されます。
これは無実の名越時章を殺害した事で、御家人の得宗家への不満が高まりそれを逸らそうとした北条時宗や安達泰盛等による責任のなすりつけ、トカゲのしっぽ切りと考えられています。
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対蒙古の前哨戦だった二月騒動
二月騒動で誤殺された時章が所有していた九州の筑後、大隅、肥後の守護職は時宗の側近、安達泰盛と大友頼泰に与えられました。
これは、蒙古襲来が現実化すると名越流が九州御家人の指揮を執る立場になり、鎌倉での影響力を強くする可能性があるため、これを冤罪で排除し執権時宗による九州異国警固態勢を強化する目的と考えられます。
また京では、北条時輔と前将軍宗尊親王の名前を借りた反得宗の動きを封殺し、反抗勢力を一掃した事で挙国一致で蒙古襲来に備える体勢が出来たとも考えられます。二月騒動は対蒙古の前哨戦だったのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は、治承寿永の乱から、およそ百年の鎌倉幕府の出来事を圧縮して解説してみました。
話の中心となるのは、やはり頼朝死後に比企氏を滅ぼして実権を握った北条氏ですが、この北条氏も、北条義時嫡流の名越氏と泰時の流れを汲む経時、時頼の争いが何世代も繰り返され、そこに三浦氏や安達氏の御家人も関係してグッチャグチャでした。
名越流との30年以上の争いも執権時宗の時代の二月騒動で終息しますが、蒙古襲来後、得宗家の権力が強くなると今度は得宗家の被官(家来)である内管領、平頼綱が勢力を伸ばし、弘安8年(1285年)得宗家外戚である安達泰盛を対立した末に、これを滅ぼす霜月騒動が起こります。
こうして、時宗死後に嫡男、北条貞時を擁立する平頼綱ですが、貞時が成長すると頼綱を疎ましく思うようになり、正応6年(1293年)鎌倉大地震に乗じて平禅門の乱を起こして頼綱の一族を誅殺し権力を得宗家に戻します。
このあたりについては、長くなりすぎるので、蒙古襲来後の鎌倉幕府についてで記事を改めて書こうと思います。
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