北条政子は、伊豆の小豪族北条時政の娘であり、鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の正室となった人です。
頼朝の死後は尼御台として混乱が絶えない鎌倉幕府の屋台骨を支え、息子まで殺すような非情な決断を下し鎌倉幕府の基礎を盤石にし執権政治を確立しました。
今回は嫉妬深く非情な女性とされがちな北条政子について解説します。
この記事の目次
伊豆の小豪族、北条時政の娘として誕生
北条政子は伊豆の小豪族北条時政の長女です。兄弟には北条義時や阿波局がいますが母親は違い、同母姉妹に北条時子がいます。
政子の生誕年は保元2年(1157年)頃で流人として伊豆で読経三昧の日々を過ごしていた頼朝と出会い恋に落ちたのは治承元年(1177年)で20歳でした。
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時政の猛反対を押し切り、頼朝と結婚
吾妻鏡によると父の時政は二人の交際に大反対だったようです。それもそのはずで時政は伊豆に流された頼朝に不穏な動きがないように監視を命じられていて、監視役の娘が監視対象者と結婚など悪い冗談でした。
しかし恋愛に一途な政子は、時政の制止を振り切って家を飛び出して頼朝の屋敷に通い、間もなく、長女である大姫を懐妊。
時政もついに折れ婚姻を認めます。
この駆け落ち話は事実のようで、後年、源義経の愛妾静御前が頼朝に捕らえられ頼朝の前で義経を慕う歌を詠み、頼朝が激怒した時、政子はこれを宥め「私も娘時代に暗闇をさまよい雨をしのいで恋い慕う貴方の所に参りました。自分を愛してくれた夫を思慕しないようでは貞女ではありません」と答え、頼朝も思い直し静御前に褒美を与えたと言われています。
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夫、頼朝が挙兵
頼朝と結婚してから3年後、治承4年(1180年)以仁王が源頼政と平家打倒を叫んで挙兵を計画し全国の源氏に令旨を送ります。当初頼朝は慎重な態度でしたが、平家が大庭景親に関東の兵権を委ねて源氏の残党狩りを開始すると観念して挙兵。
伊豆目代、山木兼隆の国衙を襲撃して勝利しますが、その後、石橋山の戦いで大庭景親や伊東祐親の軍勢に敗れて安房へ落ち延びました。この時、政子は伊豆山に留まり頼朝の安否を心配して不安な日々を送る事になります。
また石橋山の戦いの途中、政子の異母兄弟で時政の嫡男、北条宗時が伊東祐親の軍勢に包囲され討死しています。
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頼朝が鎌倉を拠点とし御台所に
しかし、頼朝は房総で関東の有力武士団、上総広常や千葉常胤を味方について数万の騎兵に成長し鎌倉に入って拠点とし、周辺の平家勢力を駆逐して南関東の地盤を固めます。政子も鎌倉に迎えられ御台所として頼朝を支える事になりました。
養和2年(1182年)政子は2人目の子で待望の嫡男万寿を出産、これが後の2代将軍頼家です。
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頼朝の浮気に嫉妬し家臣の屋敷を打ち壊す
しかし、夫である頼朝は、こともあろうに政子の妊娠中に亀の前という愛人を作り、腹心の伏見広綱の屋敷に囲い逢瀬を重ねていました。
これを時政の後妻、牧の方から知らされた政子は激怒し、11月には牧の方の父、牧宗親に命じて伏見広綱の屋敷を破壊させます。
亀の前は逃げ出して無事でしたが、頼朝は激怒して牧宗親を詰問し、髷を切り落とす辱めを与えました。鎌倉時代の男性は身分を問わず、寝ている時以外は烏帽子を被り烏帽子を被らないのは全裸で道を歩くくらいに破廉恥な事でした。この烏帽子は髷と笄で固定していましたから、髷を切られると烏帽子が固定できません。頼朝は宗親を出歩けなくしたのです。
今度は、牧宗親を義父とする時政が激怒、政子と義時以外の一族を引き連れて伊豆に帰る事件になります。政子も怒りが収まらず亀の前を屋敷に匿っていた伏見広綱を遠江国へ流罪としました。
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頼朝は決して破廉恥ではない
現代から見ると頼朝のモラルの無さが目立ち政子の怒りがもっともに見えますが、当時の常識では、むしろ政子が怒っているほうが珍しい事でした。当時の都では貴人が正室以外に、複数の妻を抱えるのは普通で法的にも保護されています。
頼朝の父、義朝、祖父の為義も複数の妻を持っていて、頼朝は当人が助平である以外にも河内源氏の嫡流を絶やさない目的意識から多くの子を生す義務があったのですが、政子の打ち壊し事件があってからは公然と妻を持つ事が出来ず、こそこそと逢瀬をするようになりました。
(源氏嫡流たるわしが、なんでこそこそと女の下に通わねばならぬのか?)頼朝は堂々と側室を作る事も出来ない状態を嘆いていたのかも知れません。
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政子は嫉妬深い「だけ」ではない
一方で政子が嫉妬一辺倒で頼朝の浮気を断罪したかというとそれも違うようです。政子の出身である北条家は伊豆の田舎豪族で身分も低いので頼朝が身分の高い女を妻に迎えると、後々、息子頼家の後継者の地位が危うくなり北条氏の影響力が落ちる事を懸念するという政治的な面がありました。
実際、政子は実子頼家を将軍職から降ろし伊豆で強制隠居させる事に賛同しているわけで頼朝の家系より実家の北条氏を重視していてますから、そうなるのも当然の反応です。
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愛娘、大姫の悲劇
寿永2年(1183年)頼朝は対立していた源義仲と和睦し、その条件として義仲の嫡子、義高と政子の長女、大姫の婚約が成立し義高が鎌倉に婿に入ります。義高は11歳、大姫は6歳前後で、夫婦生活は当分先でしたが大姫は義高をとても慕っていたそうです。母に似て一途な女性だったのかも知れません。
ところが義仲は平家討伐に苦戦した末に後白河法皇の信任を失い、法皇を幽閉して平家と結び、鎌倉からやってきた源義経・範頼の軍勢と宇治川で衝突、敗北して粟津で討たれました。
義仲が朝敵になった事で鎌倉の義高の立場も悪化、頼朝は義高を謀殺しようとします。
これを知った大姫は健気にも義高を逃がそうとし、義高側近でいつも双六の相手をしていた海野幸氏が義高になりすまし義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれて屋敷を抜け出し大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出しました。
しかし、夜には義高が逃げた事が頼朝に露見、頼朝は堀親家を派遣して追撃、義高は武蔵国で追手に捕らわれ、親家の郎党藤内光澄に討たれます。
義高が殺された事を知った大姫は嘆き悲しんで床に臥せ、心を病んでしまう事になります。政子は大姫が病になった事に激怒し義高を討った郎党の処罰を要求、頼朝は無視できず藤内光澄をさらし首にしました。
もっともそれで死んだ義高が帰ってくるわけでもなく、大姫の悲しみは癒えず、政子も何度も寺社に参詣して娘の快癒を祈願しますが回復せず、20歳前後で病死します。烈女、政子も家庭的な不幸を経験し、人間的に深みのある女性になっていきました。
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平重衡に同情し侍女を差し出す
その後、一ノ谷の戦いで梶原景時に捕らわれた平家の武将、平重衡が鎌倉にやってきます。
頼朝は「以仁王の令旨に従って挙兵し、父義朝の仇である平家を討つ事が出来、あなたも捕らえる事が出来てとても満足である。もうじき兄の宗盛殿とも面会できましょうぞ」と挑発的な言葉を投げかけます。しかし重衡は臆する様子もなく、
「元々、源平は共に皇室を支える存在でありましたが、平治の乱以後、平家が政治を独占してこのような事態を招きました。私も武人の端くれで、あなたに捕らわれて殺される事は恥ではないと心得ています。兄を待つまでもありませんので、ここで首を刎ねて頂きたい」と言い放ちました。
その堂々とした大将ぶりに頼朝は感心して厚遇。政子も重衡を慰めようと侍女、千手の前を差し出します。ところが平家滅亡後、以前、重衡に寺を焼討された東大寺が頼朝に重衡の身柄引き渡しを要求、頼朝はこれを断り切れずに重衡を東大寺に送り重衡は斬首されました。
千手の前は、それから数年後に急死したそうで、人々は重衡を思慕して心労が重なったのだろうと噂したそうです。
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政子が同情を寄せた静御前
もう1人、政子が同情を寄せたのが頼朝の異母弟義経の愛妾である静御前でした。
義経とはぐれて捕らえられ鎌倉に送られた静に政子は舞を所望、度重なる要請に折れた静は鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露しますが、頼朝の目の前で義経を慕う歌を詠んで頼朝を激怒させます。
静は最初から頼朝に成敗されるつもりで鶴岡八幡宮で舞を披露したかもしれませんが、政子は静を庇い、流人時代の頼朝の下に何度も通った事や石橋山合戦の頃の辛い思い出話をして「今、静はその心境なのですよ」と諭し、頼朝も昔の苦労を思い出し静に褒美を取らせます。
そういう事があってからか静は政子には心を開き、病弱な大姫の病気の平癒を願い、政子と共に南御堂に参詣して舞を納めています。その頃、静はすでに義経の子を妊娠していて頼朝は「女子なら助命するが男子なら殺す」と命じていました。
不幸にも静は男子を産み落とし、政子は男子の助命を嘆願します。同じ年、政子は次女の三幡を懐妊していて他人事とは思えなかったのでしょう。しかし、頼朝は許さず男児を殺して由比ヶ浜に遺棄します。
政子と大姫は静を憐れみ、京都に帰る静と母の磯禅師に多くの宝物を贈りました。女として愛する夫や子を失う深い哀しみを3人は共有し固い絆で結ばれたのかも知れません。
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鎌倉幕府が公式スタートする
建久3年(1192年)政子は35歳で男子千幡を産みます。後の3代将軍実朝でした。数日前に頼朝は征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府は公式にスタートしています。
政子の悩みは、病が癒えない大姫で建久5年(1194年)には頼朝の甥にあたる公家の一条高能との縁談を勧めますが、大姫は死んだ義高を慕い頑なに拒みました。建久6年(1195年)政子は頼朝と上洛し、大姫を後鳥羽天皇に入内させる事を協議します。
頼朝は公武合体のために後鳥羽天皇と大姫の縁談を推進し、政子も相手が帝なら大姫も喜ぶだろうと考えましたが大姫の病はいよいよ重くなりました。そして加持祈祷の甲斐もなく建久8年(1197年)20歳で大姫は死去します。
承久記によると政子は自分も死のうと思うほどに悲しみますが、頼朝が「母まで死んでしまえば大姫は親不孝をした事になり、後生に影響を与える」と説得して思いとどまらせたそうです。
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頼朝、そして次女の三幡が相次いで亡くなる
不幸は続きます。建久10年(1199年)1月、夫頼朝が急死、それから間もなく次女の三幡も14歳で病死しました。政子の悲しみは深いものでしたが、まだ若い嫡男頼家を残して死ぬことはできないと自殺を思いとどまったと承久記にはあります。
頼家が将軍職を継ぐと政子は出家して尼となり尼御台と呼ばれます。
しかし、若く経験が不足していた頼家は頼朝のようなリーダーシップが期待できず頼朝恩顧の御家人との間で確執が発生し、大江広元、梶原景時、比企能員、北条時政、北条義時が相談して十三人の合議制が定められますが、実際に13人が合議した形跡はなく数名が評議して頼家が最終決定を下す将軍権力の補完装置とする説もあります。
ただ、頼朝は生前に頼家の正室として北条氏ではなく乳母の比企尼の養子、比企能員の娘、若狭局を迎えるなど乳母の勢力と北条氏のような外戚をバランスさせる政策を取り、それが頼家と北条氏の間に確執を産んだ可能性はありそうです。
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外戚比企氏を滅ぼし実子頼家を追放する
特に頼朝時代からの宿老、梶原景時が頼家に御家人たちが頼家を廃して実朝を将軍に据える動きがあると報告し、まもなく66人の御家人の連判状で景時が排斥された事件は、実時の生母が政子、乳母が政子の異母姉妹、阿波局である事を考えると北条氏が関係していると考えるのが自然でしょう。
吾妻鏡では、建仁3年(1203年)7月に頼家が重病になって危篤となると政子と時政は、頼家の嫡男の一幡と息子の実朝で日本を分割しようと画策。これを不満に思った比企能員が病床の頼家に北条氏の横暴を訴え、頼家も北条氏討伐を命じ、それを知った政子は使者を時政に送り、時政は自宅に比企能員を招いて殺害。
さらに兵を発して比企一族を滅ぼし、さらに病が癒えた頼家も捕らえて伊豆の修善寺に幽閉し頼家は病死したとします。しかし、これらは北条氏を正当化する吾妻鏡の曲筆の可能性が指摘されています。
同時代の別史料である愚管抄によれば、頼家は大江広元の屋敷に滞在中病が重くなり自ら出家。あとはすべて嫡男の一幡に譲るとします。これにより外戚、比企氏の勢力が強くなる事を懸念した時政が比企能員を謀殺、比企一族を滅ぼして後継者一幡を殺し、頼家も修善寺に送った後、入浴中に殺害し陰嚢を切り取ったと生々しい記録をしています。
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実子、実朝を3代将軍に擁立
こうして政子は3代将軍に実朝を擁立し北条氏の外戚としての立場は強化されますが、実朝は病弱で政治への関心が薄いものの、京の文化に憧れ朝廷寄りであり、御家人の不満を集め、建保7年(1219年)兄、頼家の遺児公暁に暗殺され源氏将軍は3代で途絶えました。
政子からすれば、これで自分が産んだ全ての子供を失った事になります。政子の血を引く甥が政子の子を殺す、この血塗られた宿命にこれまで北条家を守る為に陰謀に手を染めた政子としても事件は相当にこたえたようです。
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摂関家から将軍を迎え執権政治が始まる
3代将軍実朝に子はなく、このまま将軍不在の状態を放置するわけにはいきません。
以前から政子は後鳥羽天皇に親王を派遣してもらおうと交渉していたので葬儀が済むと政子が将軍を代行して京都の後鳥羽上皇に皇子を将軍として派遣してもらえるように使者を出します。
ところが上皇は要請を拒否し条件として愛妾の荘園の地頭を罷免する事を求めてきました。
守護・地頭制は鎌倉幕府が全国の造反者に対応する重要な制度であり、これを幕府への挑戦と受け取った北条義時は弟、時房に兵を与えて上洛させ重ねて親王を鎌倉に送るように要請しますが交渉はものわかれに終わり、政子はやむなく摂関家から2歳になったばかりの藤原頼経を迎えます。
政子は幼い頼経の後見人として鎌倉殿の地位を代行し尼将軍と呼ばれ、その治世は1219年から政子が死ぬ嘉禄元年(1225年)にまで及びました。政子の死後は歴代執権が幼い将軍を補佐するようになり、こうして執権政治が確立しました。
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尼将軍政子、御家人に檄を飛ばす
承久3年(1221年)鎌倉幕府と後鳥羽上皇の間の確執は深まり、上皇は京都守護、伊賀季光を殺して挙兵に踏み切ります。上皇は義時追討の院宣を諸国の守護と地頭に下し、鎌倉の御家人たちにも動揺が走りました。
これに対し政子は、最期の詞として、亡き将軍頼朝が御家人たちの地位の向上にいかに貢献したかを語り、上皇をたぶらかす奸臣を討ち取る事を命令、ただし上皇に味方したいものは直ちに申し出て京へ行けと声明を発表します。
この政子の演説に鎌倉御家人は奮い立ち、義時が上皇軍を箱根で迎え撃つのではなく京へ攻め込むべしという方針を採用した事もあり、幕府軍が進軍するほどに味方する御家人の数が増え、それは19万人という大軍に膨れ上がり、上皇方の兵力を圧倒しました。
乱は一ヶ月で幕府軍の勝利で終結、後鳥羽法皇は隠岐島に流され、幕府は最大の危機を乗り切ります。
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執権職を北条泰時に定め大往生
承久の変から3年後、政子の異母弟で執権の北条義時が62歳で急死しました。
後継者としては義時の子の泰時が内定していましたが、対抗勢力として義時の後妻伊賀の方が産んだ北条政村がいて、この時、伊賀の方が政村を執権にしようとして有力御家人の三浦義村と結ぼうとした伊賀氏の乱が起きたとされます。
しかし、実際に謀反はなく、政子が自身の影響力の低下と北条氏の勢力が外戚の伊賀氏に移る事を恐れて未然に伊賀の方を伊豆へ追放したのが真実に近いようです。伊賀氏の変を裁いた翌年、1225年、政子は病の床につき69歳で生涯を閉じました。
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日本史ライターkawausoの独り言
北条政子は鎌倉時代の女性らしく多面的な存在です。
女性としてはとても情熱的であり、駆け落ち同然で流人の頼朝の妻になる一方、嫉妬深く、夫頼朝が側室を持つ事を許さなかったり、娘、大姫の婚約者の源義高を殺し姫を病気にした御家人の処分を頼朝に執拗に求めて実行させました。反面、過去の自分に似た境遇の静御前に対しては深い同情を寄せ、義経の男子を産んだ静の為、頼朝に助命嘆願をしたりしています。
また政治的には自分の出身母体である北条氏の安泰を第一に考え、実の子である頼家を将軍職から下して伊豆に隠居させ殺してしまうなど非情な措置を取りました。吾妻鏡では政子を前漢の呂后になぞらえ幕府を守る為に必要な措置をした女傑として讃えています。
確かに、頼朝亡き後の鎌倉幕府で、政子がただ情熱的で情け深い女性であり続け、陰謀に手を染める事が無ければ幕府の混乱はより深くなり、より多くの人の血が流れた事でしょう。政子は好むと好まざるにかかわらず初代将軍の御台所として、夫が為した鎌倉幕府を存続させるため、時に感情を殺し非情の決断を下したゴッドマザーだったのです。
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