2022年のNHK大河ドラマは三谷幸喜原作の「鎌倉殿の13人」です。
ドラマの主人公は小栗旬演じる北条義時ですが、義時が仕える主君が鎌倉幕府を樹立した源頼朝でした。鎌倉殿の13人では大泉洋が演じる源頼朝ですが実際にはどんな人物だったのでしょうか?
この記事の目次
源義朝の三男として尾張に誕生
源頼朝は久安3年(1147年)源義朝の三男として尾張国愛知郡熱田に誕生しました。
父の源義朝が保元の乱で平清盛と共に後白河天皇についた勝利した事で頼朝の官位上昇は順調で右近衛将監、二条天皇の蔵人と昇進。平治の乱が起きると13歳で右近衛権佐に任命されます。
この事から頼朝はその後長い間、佐殿、佐殿と呼ばれる事になりますし、大河ドラマでもそのように呼ばれていました。
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平治の乱に敗れ伊豆に流される
しかし、平治の乱は首謀者藤原信頼が幽閉していた二条天皇と後白河上皇の監視を怠り、2人とも六波羅の平清盛を頼って逃げてしまい形勢は逆転。天皇と上皇を握り官軍になった平清盛の下に軍勢は集まり、義朝は奮戦しますが敗れて敗走します。
頼朝も逃亡中近江で捕らえられ京の六波羅に送還され死刑を免れないところでしたが、清盛の継母池禅尼が助命を嘆願し許されて流人として伊豆に流される事になります。
これは頼朝危機一髪と言いたいところですが、実は清盛は義朝の子は庶長子義平以外全員助命していて、20年経過すると義朝の子がことごとく反逆し平家を滅亡させる事になります。なんだか平清盛は頭が切れる冷酷な独裁者に見えて、案外甘い人のようですね。
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京の情報を収集しつつチャンスを待つ
流人となった頼朝ですが、周辺には乳母である比企尼、そして娘婿である安達盛長、河越重頼、伊藤祐清が側近として仕え源氏に従って所領を失った佐々木定綱など4兄弟が従者として奉仕していました。
頼朝は地方の霊山、箱根権現、走湯権現に帰依し毎日読経を欠かさずに平家の監視の目を晦ましつつ、一方では比企尼の甥、三善康信から定期的に京都の情報を得つつ、武芸の一環である巻狩りに参加しています。
巻狩りとは、野生の鹿やイノシシを大勢で遠巻きに取り囲みながら包囲を狭めて騎射で仕留める軍事訓練であり、頼朝は決して武士である事を忘れていない事が分かります。
後ろ盾を求めて北条政子と結婚
流人で後ろ盾がない頼朝は、伊豆の小豪族、北条時政の娘、政子と結婚し大姫を儲けています。また、同じく御家人伊藤祐親の娘八重姫と祐親の許しを得ずに関係を持ち子供が生まれ祐親に激怒されて強引に別れさせられた話もあります。
いずれも有力豪族の後ろ盾がない頼朝が伊豆に勢力を築こうとしての行動だったのかも知れませんし、ただ桁外れにスケベだったのかも…
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以仁王の令旨で追い込まれ挙兵
治承4年(1180年)後白河法皇の皇子である以仁王が平家追討を命じる令旨を諸国の源氏に発しました。以仁王は源頼政らと共に宇治で敗死し、頼朝はしばらく動かずに事態を静観するつもりでしたが、平清盛が相模の豪族で平家の家人大庭景親に伊豆の源氏勢力の追討を命じると逃げきれないと覚悟した頼朝も挙兵。舅の北条一族や工藤一族の助力を得て、伊豆国目代、山木兼隆を討ち取り政庁を支配します。
しかし、その後三浦一族と合流しようとした頼朝軍300騎は平家方の大庭景親と伊藤祐親3000の騎と遭遇して石橋山で戦い敗戦。舅の北条時政や義時ともはぐれ、土肥実平など僅かな共を連れて山中に潜伏し、その後船で安房国に脱出します。
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有力豪族を味方にし鎌倉に根拠地を定める
安房で有力豪族、上総広常、千葉常胤の加勢を得て2万騎以上の大軍になった頼朝は武蔵国で足立遠元、葛西清重を加え、さらに清重の説得で秩父氏一族の畠山重忠、河越重頼、江戸重長も従え、そのまま父義朝と兄義平が住んだ鎌倉に入城し、ここを根拠地としました。
平清盛は東国の反乱が長引くと、平維盛を総大将とする追討使を派遣します。頼朝はこれを迎え撃つべく鎌倉を発して途中で従わない豪族を制圧しつつ黄瀬川に着陣。しかし、維盛の追討使4000騎は甲斐を出て富士川まで進出した武田信義の40000騎に戦うどころではなく敗走。頼朝の出番はありませんでした。
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鎌倉で論功行賞をする
その後頼朝は、千葉常胤や上総広常の進言に従い常陸国の佐竹氏討伐に向かい、その途中で奥州藤原秀衡を頼っていた異母弟源義経が参陣します。頼朝は相模国府で初めての論功行賞をして、捕らえた大庭景親を処刑、次いで佐竹秀義を討つべく常陸へ進軍して秀義を奥州に逃亡させ鎌倉に帰還。御家人和田義盛を設置した侍所別当(長官)に任じました。
これらの処置は朝廷の認可を受けずに頼朝が独自に決めた事であり倒した敵から所領を取り上げたり味方の御家人の土地を保障したり、新しい領地を与えるのも全て、朝廷の意向に関係なく頼朝の独断でおこなっていました。
論功行賞を独断でおこなうのは朝廷の軍事組織に上乗せして兵を動かす平家のやり方では出来ない事であり、頼朝の論功行賞は迅速で関東の武士団の頼朝人気は急速に高まる事になります。
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各地で反平家勢力が挙兵
富士川の戦いで平家が惨めな潰走をした事で各地で様子見していた源氏勢力が相次いで蜂起します。それは伊予の河野氏、近江源氏、甲斐源氏、木曾義仲の信濃源氏、美濃源氏、それに九州の豪族も挙兵し、平家の膝元でも南都興福寺が蜂起しました。
平家も富士川の敗戦から立ち直り、近江源氏や南都勢力を制圧しますが、養和元年(1181年)閏2月4日最高権力者の平清盛が熱病で死去しました。それでも平家は諦めず、平重衡を総大将に尾張以東の東国征伐に向かい、源行家を墨俣川の戦いで破り美濃や尾張は平氏の勢力下に戻ります。
頼朝は和田義盛を遠江に派遣して備えますが、平氏はさらに東に向かわずに都に戻ります。
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頼朝は背後に敵を抱え京都に出られず
その頃、横田河原の戦いで平氏勢力に勝利した源義仲が信濃や上野に加え越後に進出、武田信義を中心とする甲斐源氏は、甲斐、駿河、遠江を勢力下に置いています。
一方で頼朝は南関東を支配下に置いたものの北関東の豪族や奥州藤原氏、常陸の佐竹氏残党の侵攻に脅かされ、西国に出るのは難しい状態でした。
この頃の頼朝は全国制覇の野望はもってなく、後白河法皇に対しても平家と和睦して下さいと書状を出しています。寿永2年(1183年)2月野木宮合戦で頼朝は源義広、足利忠綱等を破り、坂東で頼朝に敵対する勢力が消滅しました。
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木曾義仲が上洛
同年春、以仁王の令旨を受けて挙兵し京都を狙っていた源義仲が頼朝と対立する叔父の義広と行家を庇護します。これにより義仲と頼朝の間に軍事的緊張が走りますが、両者は話し合いをし義仲の嫡男義高を頼朝の長女、大姫の婿として鎌倉に送る事で和議が成立。
後顧の憂いが消えた義仲は北陸道の連合軍を率いて倶利伽羅峠の戦いで平家追討軍を大敗させ上洛を果たしました。
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後白河法皇から上洛のラブコール
上洛した源義仲の軍勢ですが、義仲の手勢は少なく勝馬に乗った寄せ集めの軍勢でした。
当時は養和の大飢饉の最中であり、飢えた義仲軍はめいめいで略奪に走り京都の食糧事情はさらに悪化し餓死者が出る事態になります。おまけに義仲は庇護していた以仁王の遺児の北陸宮を次の天皇にせよと皇位継承に口を出したので朝廷にも京の人々にも嫌われました。
後白河法皇は義仲を平家追討に向かわせて京都を留守にさせ、その間に頼朝に上洛するように密使を送ります。頼朝は、京都の食糧事情では数万の軍勢が支えきれない事や奥州藤原氏の脅威を理由に上洛を拒否しますが、この時点で頼朝は官位を戻され、反乱軍から正規軍へと昇進しました。
この頃、西国に進出する事に反対し、関東で自治を守ろうぜと主張していた上総広常が、謀反の疑いを掛けられ頼朝の命令を受けた梶原景時に誅殺されます。
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源義経が義仲を滅亡させ上洛
自らは出陣しない頼朝ですが、後白河法皇の要請にこたえる形で源範頼、源義経が率いる数万の鎌倉軍を伊勢平氏討伐の名目で派遣しました。
義仲は「本当はワイルドな上洛軍なんだろう?俺様を排除するつもりなんだろう?騙されないんだぜェ~」と疑い、平家討伐に集中できずに水島や室山合戦で大敗。京都に逃げ戻り法皇に頼朝討伐の宣旨を求めますが、あっさり拒否されます。
西の平家と東の鎌倉軍に挟まれた義仲は切羽詰まって法住寺の法皇の屋敷を襲撃して法皇を幽閉。傀儡政権を立て西の平家と結んで頼朝軍を迎え撃つウルトラCを考え平家の承諾まで得ますが、後白河法皇を幽閉した事で「清盛と同じになった」義仲に従う豪族はほとんどいなくなり、宇治川の合戦で鎌倉軍に大敗し粟津の戦いで戦死しました。
義仲を滅ぼした頼朝は北上してきた平氏と最終決戦を開始。源義経は摂津国一ノ谷で平家を大敗させ、平重衡を捕らえて京都に帰還しました。
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平家との最終決戦開始
頼朝は義経を代官として都に残し、義経の差配で畿内武士の掌握を図りつつ四国に逃れた平家を追討すべく九州・四国の武士に平家追討を求める書状を降し側近の土肥実平、梶原景時を山陽諸国に派遣。元暦元年(1184年)8月8日には源範頼を大将とする追討軍を鎌倉から出陣させ北条義時、三浦義澄、結城朝光、天野遠景、足利義兼、千葉常胤、比企能員、和田義盛、などの関東御家人が従軍しました。
範頼は兵糧と船の不足、関東への帰還を望む武士団の不和を鎌倉に訴えますが、この状況を見た京都の義経が後白河天皇の許可を得て出陣し屋島の戦いで平家を海上へと追いやり、九州に転戦して戻った範頼と壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼします。
平家滅亡の功績により頼朝は正二位という平時の極官である左大臣クラスの官位を賜りました。
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弟義経を命令違反で討伐
平家を滅亡させた頼朝ですが、すぐに弟の義経が調子こいているという報告が腹心の梶原景時からもたらされました。実際義経は合戦でもスタンドプレーが多く、関東御家人の手柄を奪っている面があり、また頼朝の許しも得ずに後白河法皇から官位や役職を与えられ、平家一門の平時忠の娘を勝手に妻にするなど頼朝の目にあまる行動がありました。
頼朝は義経に鎌倉に戻る事を禁止、義経が気にせずに壇ノ浦で捕らえた平宗盛父子を引き連れて鎌倉に向かっても腰越の関で入国を遮断し宗盛父子だけを通過させます。
これに激怒した義経は叔父の源行家と連携して京都で兵を挙げ、後白河法皇を脅して頼朝追討の宣旨を出させました。しかし義経の挙兵に兵は集まらず、義経は300騎の手勢で九州に逃れて兵を集めようとしますが、摂津国の沖で暴風雨を受けて軍が壊滅、九州行きを断念した義経はしばらく京都に潜伏した後、奥州藤原氏を頼って北へ落ちていきます。
後白河法皇に守護・地頭の設置を認めさせる
頼朝は後白河法皇が義経に自分の討伐命令を出した事を問題視し、逆に義経追討令を出させると同時に、京都に自分の代理として北条時政を送り込んで義経を捕縛する為に日本全国に頼朝が任命した守護・地頭を置く事を認めさせ、同時に後白河法皇が勝手な動きをしないように頼朝と懇意の九条兼実を摂政として置くなどの政治改革をします。
これを文治の勅許と言い、頼朝は御家人を地頭に補任し各地の荘園に送り込んで支配させ地頭請けを通じて荘園領主から収穫物を折半させ恩賞とする事で御家人の褒美の不足を解消しました。
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奥州藤原氏を朝廷の許しを得ずに滅亡させる
源義経は藤原秀衡に匿われ、秀衡死後は息子の泰衡に匿われます。
頼朝は泰衡に対して義経追討の命令を下し、泰衡は悩んだ末に義経を衣川館に襲撃して首を獲り鎌倉に送りますが、頼朝は「今さら首を送られても大逆人を匿った罪は消えない」と1000の騎兵を奥州平泉に出陣させました。
朝廷は、頼朝に泰衡討伐の命令を出しませんでしたが頼朝は戦陣において将軍は主君の命令を聞かない事もあると孫子を引き合いに出して、独断で兵を出して泰衡を斬り、奥州藤原氏を滅ぼしました。
平家物語の視点から見ると影が薄い奥州平泉ですが、実際は頼朝に追われた常陸の佐竹氏を庇護して鎌倉に対抗した存在であり、頼朝がこれを放置するのはあり得ない事でした。
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頼朝上洛し後白河法皇と密談
奥州藤原氏を滅ぼし後顧の憂いが消えた頼朝は建久元年(1190年)10月3日、ついに鎌倉を発ち、1000騎を引き連れて平治の乱以来の源氏ゆかりの地を回り、11月7日に上洛。11月9日に後白河法皇に謁見して、誰も間に挟まずに極秘の会談をしました。
頼朝は、権大納言、右近衛大将に任命されますがすぐに辞任して鎌倉に帰還。後白河法皇が1192年に死去すると、後鳥羽天皇により征夷大将軍の地位を贈られます。
すでに頼朝は正二位の左大臣クラスの官位を得、それは精々従三位で就任する征夷大将軍よりも遥かに高い地位でした。しかしこれにより征夷大将軍=正二位相当という慣例が出来、ただの将軍号の1つに過ぎない征夷大将軍は幕府を開いた人間にのみ相応しいステータスシンボルになっていくのです。
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鎌倉幕府の基礎固めを続け51歳で死去
その後の頼朝は富士の巻狩りを大々的におこない12歳の嫡男頼家が見事に鹿を射止めた事を大々的にPRし後継者頼家を印象付けたり娘の大姫や乙姫を後鳥羽天皇の皇后にしようと画策し、朝廷との関係強化につとめるなど最後まで鎌倉幕府の拡充と基盤整備に取り組みます。
そして建久10年(1199年)落馬を原因とする病で51歳で死去しました。
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日本史ライターkawausoの独り言
頼朝最大の功績は、それまで精強でも一族で結束する程度しか知らず、西国武士に対して後れを取っていた関東武士を御家人という制度に取り込んで支配下に組み込み、集団で団結して戦う組織的戦士として再編した事です。
さらに頼朝は武士が何よりも望む「迅速な恩賞と土地の権利の保護」を明確に理解し、手柄を立てた御家人には朝廷に伺いを立てず、手ずから恩賞を与えて武士の保護者である幕府の立場をPRしました。
頼朝の手法は、武士のニーズを掴んだものとして踏襲され、少しずつ形を変えながら、歴代幕府と将軍に引き継がれ700年近く続く武士の時代を支えたのです。